連載 五月人形の重箱のスミ 74

甲冑 兜 ~その十一~

  唐獅子 ②

神社の柱の唐獅子(右は獏、左は龍)

 「唐獅子」の意味は、「唐(中国七~九世紀ごろ)の国のライオン」ですが、中国にライオンはいません。

 唐の時代はインドから伝来された仏教がさかんになっていて、僧を中心にインドと行き来が多い時代でした。そのインドには「インドライオン」がいるのです。姿かたちはアフリカのライオンとそっくりですが、やや小ぶりです。頻繁な行き来の中で、僧侶やその周辺の商人たちがインドライオンを中国に持ち込んだものと思います。仏教とライオンが関係あるのかといわれれば、あるのです。文殊菩薩が乗っているのが獅子(ライオン)なのです。

 文殊菩薩と言えば、私などには「三人寄れば文殊の知恵」くらいしか思い浮かびませんが、最澄とともに日本で最初に大師号を与えられた慈覚大師(円仁)が伝えた大乗仏教の象徴でもあります。慈覚大師は、九世紀に苦難の末に唐にわたり修行をおさめた方で、弘法大師より少しお若いですが先に大師号を得られました。最澄、弘法大師にくらべ人口にのぼることの少ない方ですが、あのライシャワー博士によって詳細な研究がなされて戦後は評価が高まっています。ライシャワー博士はご存知のように米国の駐日大使を務められた方ですが、日本の国文学者でも手を焼く難解で膨大な漢文による慈覚大師の日記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」を解読し、解説しています。この中に、道でライオンに出くわしたお話が出てきます。この旅行記は世界三大旅行記のひとつになっています。他のふたつは、「大唐西域記(例の三蔵法師のお話)」、「東方見聞録(ご存知マルコポーロ)」です。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

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連載 五月人形の重箱のスミ 73

甲冑 兜 ~その十~

 唐獅子(からじし) ①

兜の唐獅子

 エンゼルス時代の大谷選手の兜には龍頭(たつがしら)ではなく、唐獅子(からじし)がついていました。かつてはお節句の飾りには唐獅子のついた兜も多く、龍と半々くらいでしたが今では唐獅子の前立(まえだて)はほとんど見ることがなくなりました。原因は、木彫りの龍が海外で安く大量に作られるようになり、多くの業者がそれに依存することで唐獅子を作る国内の職人がいなくなってしまったのです。愚かなことでした。大谷選手の兜を作った九州のメーカーにはたくさんの問い合わせがあったようです。節句用の鎧兜というより、映画撮影やお祭りなどの用途に特化した甲冑メーカーさんなので私たちの扱うお節句用の兜の作りとはちょっと違います。少し前に「着用兜」っていうのがお節句の飾りでも流行りました。着用兜は玩具のようなものですが、それを本物っぽくした作りです。一般に販売されている着用兜は、文字通りお子様の「着用」にこしらえられているので、節句のしつらえには本来向いていません。あくまでお子様のコスプレ用です。お子様がかぶってもいいように安全で軽く、かぶった姿はとてもかわいいものです。着用兜をお求めになる方は、それとは別にお節句用の鎧兜もご用意いただくことをお勧めします。

 節句飾りは、「厄除け」「お守り」として「祈り」の対象になりうるかどうかがおもちゃと根本的に異なる点です。着用兜はあくまで「着用」であって、本来ならばお節句の兜をご用意していただいた上で、それとは別にコスプレ用にお求めいただく兜です。もちろん、実際にかぶれるような大きさのちゃんとしたお節句用の鎧・兜もあります。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 72

甲冑 兜 ~その九~

 龍って?

西洋の龍

 ここまで何気なく龍という語を使ってきましたが、龍とはいったいどのように生み出された生物なのでしょう。

 西洋にも龍=ドラゴンがいます。ほとんど同じような姿ですが、あちらの龍には翼が付いています。東洋の龍には翼がありませんが、空は飛べます。

 民俗学の吉野裕子は、龍の元は蛇ではないかと解いています。蛇は脱皮して成長するところから、そのたびに新たに生まれ変わる神聖な生物であり、そこからさまざまな信仰が生まれたというのです。赤い舌をちろちろ出すところからは炎を吐くことを連想させます。また、多くのヘビのオスには生殖器が二本あり、それを見た人が足と誤解し足があるなら手もあってしかるべしということで、手足があり口から炎を吐く生物が創造されたということです。神話などに出てくる大蛇(オロチ)は、多くの場合龍との境目がはっきりしていません。先の俵藤太の踏んづけた大蛇も龍王の化身ということです。

 ヨーロッパ、中東、インド中国のいずれが発祥の源か知りませんが、どの地域にも同じような姿の空飛ぶ龍がいるのは不思議です。

 龍についてはまだまだほじくり足りませんが、どんどん兜の龍頭から離れていくのでここら辺で打ち止めにしたいと思います。次回からは唐獅子について。これも面白いです。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 71

甲冑 兜 ~その八~

龍頭(たつがしら)

龍頭のついた兜

話が龍頭と鐘の話からだいぶそれてしまいました。

 兜についている龍頭(たつがしら)には金属製のものや木彫りのものがあります。どちらが良いというものではありませんが、それぞれにできの良し悪しはあります。また、架空の生物なので様式が大切です。龍頭に用いる龍にはヒゲがついていなければなりません。龍の特徴のひとつです。また、龍頭の龍の尾の付近によく見ると剣のようなものがくっついています。これは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)を表しているのではないかと南方熊楠(みながたくまぐす)は指摘しています。尾で巻いているものもありますが、本当は後ろ足のあたりから突き出ているようについている方が良いように思います。

 龍の手は玉を持っています。その手の指は普通三本です。絵や欄間には四本や五本のものもありますが、指の本数に意味を持たせるよりも龍頭の場合には三本が合っているように思います。最近はこの玉はガラスや貴石のものが使われますが、以前は玉も木彫りで作られていました。これもどちらが良いというものではありません。むしろ、木彫りでこしらえる方がたいへんなように思えます。ダイヤモンドやエメラルドならば話は別ですが・・・

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 70

甲冑 兜 ~その七~

その前にお知らせ

ただ今、五月人形 絶賛売り出し中です!

小ぶりながら本格的な兜飾り

桃太郎  楽しいお節句を!

 

鐘といえば道成寺

道成寺の羽子板

 お寺の鐘と蛇と言えば、有名なのが歌舞伎の「道成寺(どうじょうじ)」です。こちらは、通りがかったいけめんのお坊さん安珍に清姫が一目惚れ、修行の帰りに再び立ち寄るからと約束したもののあっさり振られた清姫が怒り狂って大蛇となって追いかけ、道成寺の鐘の中にかくまわれた安珍を鐘に巻き付いて焼き殺してしまうという物語です。鐘と蛇とはどうやら深い縁があるようです。

 羽子板によく用いられる外題(げだい)のひとつに、この道成寺があります。たまに、縁起物なのにどうしてこんな縁起の悪そうなものを採り上げるのか、とお尋ねいただくことがあります。羽子板にはこのほかに「汐汲(しおくみ)」「浅妻(あさづま)」「藤娘」などがよく用いられますが、そういう意味では縁起のよさそうなものはありません。

 わたしたち人形屋が、羽子板は女の子の初正月の縁起物として売り出しているのでこのような齟齬が生じるのですが、もともと、羽子板の日本舞踊の外題にはあまり意味がないのです。例えていうなら、玉三郎の道成寺がとても美しかったので羽子板にしてお部屋に飾るようにした、という感じ。道成寺がどうこうというより、玉三郎の清姫がすごくきれい!というのが大切なのです。歌舞伎に興味のない方には、「かあちゃん、おれ、人を殺しちまったよ」と歌うフレデイ・マーキュリーのポスターを部屋に貼るようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。そんな縁起の悪いものを!とはだれも言いません。道成寺の物語は、だれもが芝居の上のことだとわかっているので、その姿が美しければそれでいいのです。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 69

甲冑 兜 ~その六~

 鐘にまつわるお話

 

この辺りから読みはじめられた方は、「甲冑 兜なのになんで鐘の話?」と不審に思われるでしょう。

改めてご説明すると、兜の前に付いている龍の彫物、あれは「龍頭(たつがしら)」と呼びます。人形業界の方たちでも「りゅうず」と呼ぶことが多いのですが、りゅうずと読んだ場合には腕時計のネジを指すのです。その語源は、鐘の先端、吊るせるように輪っかになっているところをそもそも「りゅうず」と呼んだところから来ているという話から脱線して、未だに本線に戻れず鐘の話をしているのです。

つけたりですが、「龍頭(りゅうとう)」と読むこともあります。「竜頭蛇尾(りゅうとうだび)」ですね。この場合もう一つ、仏教の行事で幡(ばん)を吊るす時の龍の頭の形の金具もこう呼ぶそうです。では、続きを

これは大須観音の鐘です。鐘楼も立派です。残念なのは鳩除けの金網。

 

 その後、文保二年(1318)、後醍醐天皇のころ三井寺が炎上し、この鐘は比叡山延暦寺に移りますが延暦寺ではどれだけ突いても鳴りません。それならばと大木の橦木をもって数十人で力いっぱい突くと、クジラのような声で鐘が「三井寺へ行こう(イノ~)」と鳴いたということです。山門衆はこれに腹を立て、山の上から鐘を投げ落とすと粉々に割れ砕けました。その破片を拾い集めて三井寺に送りつけたところ、その晩、小さな蛇が破片の間を尾で撫で回り、朝には元通りの鐘になっていたということです(太平記版)。南方熊楠(みなかたくまぐす)は、これを、「龍王がくれたものだから鐘の龍頭が神異を現じたということだろう」と述べています。

 また、三井寺のこの鐘には径十五センチほどの円い瑕(きず)があるそうです。これは、その三百年ほど前、赤染衛門(あかぞめえもん)が若衆に化けてこの鐘を見に来た時、鐘を撫でた手が離れなくなり、むりやり引きはがした時の痕(あと)だということです。赤染衛門は紫式部と同世代で、百人一首にも載っている歌人です。夫は大江匡衡(おおえのまさひら)で、尾張の国司として夫婦で赴任してきており、灌漑用水として作られた大江用水、大江川はその名を今にとどめ、現在も江南市から一宮、稲沢、あま市と流れています。たいへん仲の良い夫婦として知られ、命日も同じと伝えられています(赤染衛門の方が少し長生き)。後の尾張の繁栄の礎を築いた恩人といえるでしょう。

 一方、三井寺の縁起によれば三井寺炎上のとき、弁慶はこの鐘を延暦寺に引きずり上げたところ、いくらついても鳴らないので力まかせに鐘を山から投げ落としたとされ、かつてはこのお話を基に「釣鐘弁慶(つりがねべんけい)」、「釣弁慶(つりべんけい)」という節句人形がよく作られました。三井寺には今もこの時の鐘が「弁慶鐘」として鎮座しています。二トン以上あるそうです。文保二年と弁慶の時代とは百年以上の開きがあります。この鐘は何度もこわされ、そのつど蛇が直していたのでしょうか?

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 68

甲冑 兜 ~その五~

鐘と龍

 龍王にもらった鐘 ~俵藤太のお話~

瀬田の唐橋の俵藤太 筆者画

 釣鐘と龍の話があります。

 平安時代、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という豪傑がいました。平将門の乱を鎮圧したという武将です。ある日、瀬田の大橋(琵琶湖)に大蛇が出るとの噂を聞き出かけると、まさに長さ二十丈(六十メートル)の大蛇がかま首をもたげ、眼は太陽が二つあるがごとく、大木のような二本のツノ、黒い鉄のような牙が生え違い炎のような舌を出しています。ところが秀郷、平然とその胴体を踏みつけて渡り通り過ぎていきました。しばらく行くと小柄な老人が秀郷に声をかけます。「私はこの橋の下に二千年にわたって住むものですが、あなたのような豪胆な方に出会ったことはない。そこで相談ですが、私には永年の宿敵がいて、今夜、そいつがやってくる。それを退治をしてもらえまいか」というもの。小男についていくと、琵琶湖の水が二つに分かれ、現れたのが竜宮城。老人は龍王だったのです。豪華絢爛な酒宴の後、夜も更けると遠くから二~三千本ほどの松明(たいまつ)が二列にならんでこちらへ近づいてきます。これは大きなムカデが両側の脚に松明を持って近づいてくるところ。秀郷は自慢の剛弓に矢の箆(の=軸のこと)にしっかりと矢尻の芯をはめた特製の矢三本を持ち、ムカデの頭を射ます。一、二本とも同じところに過(あやま)たず当たるのですが、跳ね返されます。三本目は、矢尻に唾を吐きかけ同じところに射当てると、ついに喉の奥まで矢は突き刺さります。こうして宿敵を倒した秀郷に、龍王は太刀一振り、巻絹一反、鎧一領、俵一俵、赤銅の鐘一つをお礼として贈ります。巻絹は切っても切っても減ることなく、俵の米はいくら取り出しても減らないというお宝で、ここから秀郷は俵藤太(たわらとうた)と呼ばれるようになりました。渥美半島の田原出身なので俵という説もあります。藤太は奥州藤原氏の祖ということでつけられました。釣鐘は寺院のものだからということで、三井寺(みいでら)に奉納します。

 お話によっては老人が若い女性=龍女だったりしますが、いずれにしても龍なのにムカデに悩まされていたのですね。ちょっと不思議です。

 秀郷は弁慶牛若丸より300年くらい前の人ですが、このときの鐘が後々弁慶にまでかかわってきます。まだまだ続く鐘と龍のお話!

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 67

甲冑 兜 ~その四~

お話の前に少し商品のご紹介

どこにもないような五月人形がいっぱい!

伝統工芸士の手描き彩色の人形、手描きの木綿屏風

約5万円

伝統工芸士の桃太郎、手作り彩色の張子の親子鯉、

純木製(センの木)の台(ベニヤ、ボードではない)。

約9万円

欄間職人の彫った龍頭付の兜飾り。手描き菖蒲のたんけい、

表具師のこしらえる本物の屏風。ちっこい張子の虎。

このような一般には扱われていない五月人形がたくさん

ご覧いただけます。楽しい(?)お話もおまけについてます。

今週末~来週が五月人形をお求めいただくピークになり

ます。お出かけください。

 

鐘にまつわる四方山話(よもやまばなし)

 お寺の鐘について、内田百閒(ひゃっけん)が面白いことを書いています。戦前の話ですが、岡山の榮町というところにあるお寺では、火事や洪水のときには半鐘のようにごんごんと大きな音でつき続けるならわしだったそうです。ところが鐘はつき続けるとだんだん熱を帯びてくるらしく、榮町の人は火事になると消火のためだけでなく鐘を冷やすために水をかける役目の人がいたそうです。鐘をつき続けることで電子レンジのように金属分子が摩擦で発熱するのでしょうか。ほんとかどうかわかりませんが、面白いお話です。

 さらに、鐘について。戦時中、金属が不足して軍は全国のお寺から鐘を供出させたそうです。終戦後、そうしたお寺から再建のため注文が殺到して鐘をつくる会社はずいぶん繁盛しました。ところが、鐘の会社というのは、製作はもちろんですがふだんは古い鐘の修理で利益を出しているのです。ですから、いちどきに鐘を新造したために、その後数十年間修理の仕事が途絶えてしまい多くの鐘の会社が廃業してしまいました。そのため、戦後80年たって新造した多くの鐘の修理の時期がきているのですが修理できるところがなく、困っているそうです。なるべく鐘を鳴らさないようにしているお寺が多いということです。こんなところにも戦争の影響が出てくるのですね。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 66

甲冑 兜 ~その三~

 蒲牢(ほろう)  前回からのつづき

龍頭(りゅうず)

 龍には九匹の子供がいるそうです。それぞれに名前がついていて蒲牢はその中のひとつ。子どもたちは皆、龍にはなれなかったとのこと。ということは、昔からいろいろなお話に出てくる龍はみな同じ龍なのでしょうか。蒲牢は龍に似た姿ですが、兄弟に贔屓(ひき)というのもいて、こちらは亀の姿をしています。古い寺社の柱の下の礎石にときどきこの亀の姿が彫られています。名前があるとは思わなかったのですが、これが贔屓です。この贔屓をひっぱったりすると柱が倒れてしまうので「贔屓の引き倒し」という言葉が生まれました。「どうぞ、ごひいきに・・」というのは、「どうぞ、支えて下さいね」という意味になります。重いものを支えるのが得意だったようです。その姿から「ヒキガエル」にも援用されました。あとの七匹にもみな独特の姿と性質があります。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 65

甲冑  兜 ~その二~

 龍頭

欄間師が彫った龍頭。深く細かい彫り、ひげがあります(龍鬢)。

尾のところに剣。三爪で玉を持つ龍頭の様式です。

兜のお話の佳境に入ってきます。特に「龍」にまつわる話はたくさんあって、「へ~!」「ほほう!」の連続です。お楽しみください。

 

 龍頭は 「たつがしら」と読みます。兜の正面、左右の鍬形(くわがた)の間に取り付けます。龍の文様は帝しか用いることができませんでしたので、兜の前にこれがついているということは、帝公認の武士であることを表していたのだと思います。言うまでもなく、龍は想像上ですが最も強い動物です。空も飛べるし海にも潜れます。

 また、竜と龍の二つの文字が同じ読み、同じ意味で用いられています。龍の略字が竜なのかと思われていますが、紀元前千数百年から竜の字は使われており、こちらの方が古い文字のようです。この竜にいろいろ装飾が加えられ、龍になったという珍しい漢字です。漢字といいましたが、漢の時代より以前になりますね。

 兜の龍も「りゅうず」と呼ぶ人もいますが、一般にりゅうずというと腕時計に付いている小さなネジのことを指します。しかし、このりゅうずという言葉は腕時計が生まれるよりずっと昔からある日本語で、それは、お寺の釣鐘のてっぺんについている、ぶら下げるための金具のことを指す言葉なのです。懐中時計ができたとき、そのネジとお寺の鐘の龍頭の形が似ているのでリュウズと呼ぶようになり、腕時計のネジもこう呼ぶことになったのでしょう。英語みたいですがれっきとした日本語です。なぜ、釣鐘の頭を龍頭と呼ぶようになったかというと、この鐘をぶら下げるためにてっぺんについている「紐(ちゅう)」という金具に、よく蒲牢(ほろう)(※)という龍に似た彫り物がついていたからなのです。

(※)次回は蒲牢のお話。お楽しみに

 

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