連載 五月人形の重箱のスミ 65

甲冑  兜 ~その二~

 龍頭

欄間師が彫った龍頭。深く細かい彫り、ひげがあります(龍鬢)。

尾のところに剣。三爪で玉を持つ龍頭の様式です。

兜のお話の佳境に入ってきます。特に「龍」にまつわる話はたくさんあって、「へ~!」「ほほう!」の連続です。お楽しみください。

 

 龍頭は 「たつがしら」と読みます。兜の正面、左右の鍬形(くわがた)の間に取り付けます。龍の文様は帝しか用いることができませんでしたので、兜の前にこれがついているということは、帝公認の武士であることを表していたのだと思います。言うまでもなく、龍は想像上ですが最も強い動物です。空も飛べるし海にも潜れます。

 また、竜と龍の二つの文字が同じ読み、同じ意味で用いられています。龍の略字が竜なのかと思われていますが、紀元前千数百年から竜の字は使われており、こちらの方が古い文字のようです。この竜にいろいろ装飾が加えられ、龍になったという珍しい漢字です。漢字といいましたが、漢の時代より以前になりますね。

 兜の龍も「りゅうず」と呼ぶ人もいますが、一般にりゅうずというと腕時計に付いている小さなネジのことを指します。しかし、このりゅうずという言葉は腕時計が生まれるよりずっと昔からある日本語で、それは、お寺の釣鐘のてっぺんについている、ぶら下げるための金具のことを指す言葉なのです。懐中時計ができたとき、そのネジとお寺の鐘の龍頭の形が似ているのでリュウズと呼ぶようになり、腕時計のネジもこう呼ぶことになったのでしょう。英語みたいですがれっきとした日本語です。なぜ、釣鐘の頭を龍頭と呼ぶようになったかというと、この鐘をぶら下げるためにてっぺんについている「紐(ちゅう)」という金具に、よく蒲牢(ほろう)(※)という龍に似た彫り物がついていたからなのです。

(※)次回は蒲牢のお話。お楽しみに

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 64

甲冑  兜  ~その一~

端午の節句のしつらえというと、近年は兜の飾りが多くなりました。お子様が生涯にわたってお節句のときに飾っていただくためのものですので、ある程度きちんとしたものを贈られると、生涯、お節句のしつらえとして飾っていただけます。

お子様に最初に贈られる一生物は「名前」と言われますが、2番目に贈られるのが「節句飾り(五月人形や雛人形)」です。少し兜にまつわるお話を知っているとご興味がわいてくるというものです。

天辺孔。この兜には浮け張りも施されていません。

「後三年の役」合戦図より模写

 

 端午の節句のしつらえのひとつに兜飾りがあります。この兜のてっぺんには穴が空いていて、ときどき「穴にはめ込むものがない」とご連絡をいただくことがあります。ここにはめ込むものは「元々ない」のです。

 ちゃんとこの穴にも「天辺孔(てへんのあな・てっぺんこう)」という名前があり、穴の周りの飾り金具を含めて「八幡座(はちまんざ)」とも呼びます。頭の天辺(てっぺん)に、八幡様がおられるのですね。

 この穴はなんのためにあるのでしょう。

 いくさと言えば春や秋ばかりではなく、暑い夏にも行われます。そんなとき、兜の鉢は灼けてちんちこちんになります。その兜内の熱気を抜けさせるのにこの穴は必須です。そればかりでなく、平安時代には黒い烏帽子(えぼし)をかぶっているその上に兜をかぶっていたので、この穴から烏帽子の先を出していたのです。古い合戦絵巻には、兜のてっぺんから黒い煙のようなものが描かれていることがありますが、(絵)これは、烏帽子の先なのです。鎌倉時代には兜の鉢の内側に鉢が浮くように布を張り(浮け張り)、よりかぶりやすくなりました。頭が痒くなるとこの天辺孔から棒をつっこんで掻いたという話もありますが、浮け張りがあると痒いところに届かなくなりますね。室町時代になると、この穴にほんとうに八幡様の彫り物などを取り付けたりする人も現れました。

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連載 五月人形の重箱のスミ 63

弁慶と牛若丸

京の五条の橋の上で月を見上げる弁慶

 

 これも実在の人物です。牛若丸はご存知、源義経の幼名です。といっても、若い方たちに通じないことがふえてきました。

 京都の五条橋での邂逅(かいこう)は有名で、歌にもなっています。

一、京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長いなぎなたふりあげて 牛若めがけて切りかかる

二、牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

三、前やうしろや右左 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった

 歌にあるように、橋の欄干の上の牛若丸と、長刀(なぎなた)を持った弁慶の人形は、かつてはよく作られていました。多くの場合、弁慶は僧形で袈裟(けさ)姿、長刀をもって背中に七つ道具を背負っています。対する牛若は髪を稚児輪(ちごわ)に結い、女物の薄手の単を頭にかけ、笛をもち、扇子を投げつけています。履物は下駄です。いまも、京都の五条大橋の西端にこのふたりの石像があり、観光名所の一つになっています。

 この後の弁慶義経の話は、歌舞伎の「義経千本桜」や「勧進帳」で有名です。弁慶は頭の悪い乱暴者のように描かれることが多いのですが、「勧進帳」にもあるように、白紙の巻物をさも本当に書かれているように朗々と読み上げるような知力もある人物です。弁慶単体の人形はありますが、牛若丸単体の人形はなぜか少ない。多くが欄干の上に飛び乗った牛若と、長刀を持った弁慶の対の人形ですが、最近はあまり見ることも少なくなりましたが、これこそ大人になって歌舞伎に親しむきっかけとなるかもしれない大切なものなので知っておくと良いと思います。義経を守り、最期は「弁慶の立ち往生」という言葉があるように、主君を守る鑑(かがみ)として節句人形のひとつになりました。交通渋滞などの「立ち往生」の言葉もここからきています。「釣鐘弁慶」「勧進帳」「五条橋の牛若と弁慶」など、もっとも多くの種類の人形が作られた人物です。

 また、義経は同時代に関白九条兼実の息子に良経という同じ読みの息子がいたため、謀反人となったとき、兼実は勝手に「義経」を「義顕(よしあき)」と改名させています。義経は衣川(ころもがわ)の戦いで亡くなりますが、一方の良経は摂政となり、歌人としても百人一首に載せられています。

 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ」

 

 

 

 

 

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特別編 端午の節句、五月人形の本当のトコロ ~その二~

飾兜と三方八足、家紋

 

前回お届けした「特別編 端午の節句、五月人形の本当のトコロ」に多くのご反応をいただきました。改めてネット上で調べてみると、お節句を扱っておられるお店の説明のほとんどが「端午の節句=初めての午の日」となっていますので、それについてのご質問もありました。

いろいろなご説があってもお節句が盛り上がっていいのです。

「続日本紀」、「御堂関白記」など平安時代には多くの日記形式の書物があって、それらには端午の節句のことは「五月五日節」「端五節」「重五節」と書かれています。平安後期に「端午」という記述があらわれ、江戸時代の学者は「書き間違えたのだろう」と述べています。日本のこうした現代にいたるまでの多くの書物の中で、五月五日以外の午の日に端午の節句を行った記述を探すことはできませんでした。また、中国の書物にもないようです(これは実際に調べていないので伝聞です)。

また、中国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自殺した日がこの日なので、五月五日が端午の節句になったと書いてあるHPもありますが、屈原の事件より千年以上前から端午の節句はありますので、明らかな間違いです。

さらに、「尚武」という言葉から、「菖蒲」を飾ることが始まったと書かれているHPもありましたが、これは逆で、菖蒲を飾る「菖蒲の節句」から同じ音の「尚武」が言われるようになったのです。武を尚(たっと)ぶ時代よりはるか前から菖蒲の節句は行われています。平安時代には、「武」はむしろ蔑まれていました。

「節句」という言葉にも少し触れます。「季節の変わり目・・・」のように説明されているものが多いです。節句は「季切り」のような感じがしてわかりやすい言葉ですが、これも江戸時代の有職家・伊勢貞丈が「だれかが書き間違えたんだろう」と述べています。「せっく」の元は「節供」ですが、これは文字通り「お供え」のことです。宴会・催しのことを指すなら「節会(せちえ)」というのが良いでしょうが、もともとは単に「節(せち)」と呼ばれていました。また、平安時代の五節句は「お正月(1/1)」、「白馬の節会(1/7)」、「踏歌祭(1/16)」、「端午節(5/5)」、「豊明節(11月)」で、季節の変わり目でもありません。さらに、現代では一月の節句は七日の「人日の節句」とされていますが、この日はもともと何かを祝う日でも忌む日でもなく単に「占う日」で、しかも、わが国ではこの日にだれも何も占いません。ただ、七草粥をいただくという、よく分からない日なのです。これも解説すれば、人日と七草粥とは本来関係がありません。七草粥をいただくというのは、古代からある「初子の祝い」、つまり初めての子の日に野に出て若松の根引きを行い、七種の若菜の雑炊を食せば寿命がのびるという風習にのっかったもので、初子の日が平安時代に七日に固定され、江戸時代になってさらに人日が重なって「人日=七草粥の日」となってしまったのです。このように、一月七日が五節句のひとつに決まったのは江戸時代の始めで、この件も、前述の伊勢さんは「そんなでたらめなこと・・・」と怒っています。他の四つの節句は3/3,5/5,7/7、9/9となっていますので、1/1であることはしごく当然なのですが、七日に決められた江戸時代の会議では「正月は忙しいから一月の節句はちょっとずらして七日にしよう」と一条氏が言い出して、決まってしまったようなのです。けっこういい加減な気もしますが、そのときどきの都合で決められるという柔軟さが日本のいいところなのかもしれません。

写真は端午の節句飾りのひとつです。だれが見ても「あ、お節句だ」と感じていただけることが大切です。それは、普段の日と違う特別な日を表すしつらえでなければならないからです。中心となるものは兜や鎧、人形などがありますが、いずれも厄除けや形代的な役割があります。もとは天の神様への貢ぎ物・供物でした。各地に残る「奉納鎧」がその最たるものです。これらを飾ることで「健やかに」「大きく」と祈る、その対象の役割を果たし、それを通じて天に祈りを届ける伝声管、今で言えばスマホのような働きをしてもらうのです。ですから、大切なお役目をこなしていただくために「お供え」をしなければなりません。お節句当日にはチマキや柏餅をお供えし、お祝いが済んだらみんなでそれを召し上がって下さい。お供えをし、祈り、それをいただくことで天に祈りが通じたことになります。これは特定の宗教上のことではなく、世界中のどの信仰でも行われている典型的な祈りのかたちなのです。

兜のヒツには家紋が描かれています。これは親子の絆を表し、祈りの対象者を明確にするはたらきがあります。その他、様式にある程度のっとっていることが大切です。神社にお参りするときの二礼二拍手とか、鳥居の中央を通らないとかよりもずっと大切な様式・作法がそこにはあります。

連載 五月人形の重箱のスミ 62

神天鍾馗 ~その二~

  鍾馗(しょうき)

鍾馗さま

当店でご覧いただけます

 

 また、鍾馗は、中国・唐の六代玄宗(げんそう)皇帝の夢に出てきて悪鬼を退治したことから魔除けとしてその姿を絵に描いたり、人形にするようになりました。鬼瓦にもよく用いられます。この鍾馗さん、官吏になるための科挙の試験を受けますがどうしても受からない。それを恥じて自殺してしまうのですが、当時の初代皇帝高祖が憐れんで手厚く葬ってくれたのを恩義に感じて玄宗皇帝の夢の中の悪鬼退治に現れたのです。日本でも江戸時代には魔除けとして絵によく描かれ、赤い絵具で描かれたものは特に疫病除けとして売れたそうです。コロナにも効くかもしれません。かつては赤鍾馗といって、赤い鍾馗人形もよく作られました。

 鍾馗さんは悪鬼を退治するのですから怖くないといけません。見ただけで子供が泣きだすくらいでないと意味がありません。現代中国でもこの方は有名で「ジョンクィ」と呼びます。鍾馗にも様式があり、手には諸刃の剣、独特の冠をかぶり、ヒゲ面です。帯のバックルにあたるところは獅子頭です。

 神天鍾馗には、こうした「様式」が求められることと、「こわい」ことなどから、最近は求められる方も少なくなってしまいました。作る人が少なくなると、持ち物(剣や冠、弓など)をこしらえる職人もいなくなり、今ではちゃんとした神天鍾馗は作ることがかなりむつかしい人形になってしまいました。

 この二人は厄除け、お守りとしての節句のしつらえのお人形の中ではもっとも格の高いものといえます。

 

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特別編 端午の節句、五月人形の本当のトコロ

江戸時代後期

名古屋・本町通りの端午の節句の様子

「大にぎわい城下町名古屋」より引用

 

〇端午の節句は「はじめての午の日」ではない?

よく初めての午の日と説明されますが、おおもとの中国でも端午の節句は紀元前からずっと五月五日に行われていて、たまたま午の日にあたることはあっても五日以外に行われることは殆どありませんでした。わが国でも同様で、端午の節句は奈良平安の時代から五月五日に行われています。

言葉の意味からしても、初めての午の日ならば「初午(はつうま)」ですし、その月の初めての午の日ならば「上午」です。ひな祭りは「上巳の祓え(じょうしのはらえ)」として、平安時代の半ばまでは三月三日ではなく、三月の最初の巳の日に行われていました。三月三日になったのは、三日に行われていた「曲水の宴」に合体吸収されたからです。

かつては「端五」と書かれていたのですが、競馬(くらべうま)をしたり、お正月の白馬の節会のように白馬を天覧したりという馬にちなんだ行事がよく行われたので「端午」と書かれるようになったのでしょう。無理もないことです。

 

〇端午の節句に飾るもの

公家は菖蒲、武家はそれに加えて甲冑、庶民は人形(あるいは雛兜や木の兜など。むしろ、外に飾る幟<のぼり=大幟や鍾馗旗、鯉のぼり類>の方がメインだったようです)。

今でも、六月の始めころ京都へ行くと、由緒ある邸宅や料亭などの屋根に菖蒲や蓬が葺かれているのを見ることができます。屋根に菖蒲を葺き、室内にも菖蒲を飾ることが端午の節句の由縁です。その上で、雛兜、雛鎧、五月人形(神功皇后や神天鍾馗、桃太郎、金太郎など)を象徴的に飾り、祈りの対象、厄除けの人形(ひとがた)とします。

 

〇だれの兜(鎧)=甲冑を飾る?

そのお子様のために新しく作られた甲冑を飾ります。だれかのを模した甲冑を飾ることはなく、その子のための、だれのものでもない甲冑を飾ります。特に戦国時代の甲冑は、戦果をあげた武将イコール多くの敵をやっつけた武将ですので、祟りを嫌う縁起の面からも江戸時代には飾られることはありませんでした。戦国時代の奇抜なデザインや西洋風のものも嫌われ、国風が見直されて平安鎌倉時代のものが飾られるようになりました。戦(いくさ)がなくなりイベントのときにしか使われない武士の甲冑も古風なデザインに戻りました。実際、平安・鎌倉時代の甲冑は現在、世界中の美術愛好家から「最も美しい武具」と評されています、江戸時代でも端午の節句にそうしたデザインの甲冑が飾られたのは、やはり「美しいから」です。

 

〇どんな人形を飾る?

落語の「人形買い」で、熊さん八っつあんがお節句の祝いに贈る人形を太閤秀吉と神功皇后とで迷うのがあります。太閤秀吉は百姓から身をおこして天下を取った出世頭、神功皇后は朝鮮征伐や八幡さまと呼ばれるようになった応神天皇を生んだ女帝(?)です(昭和元年までは第十五代天皇に数えられていた皇后)。他に、当時の人形屋の様子が描かれた絵には桃太郎や金太郎、牛若丸や応神天皇の人形など、強い、出世、をキーワードにしたいろいろな人形が並んでいるのが見られます。

 

〇大幟(おおのぼり)に鯉のぼり

江戸時代の絵に、名古屋の本町通りの端午の節句の様子が描かれたものがあります。軒並み大きな幟や鍾馗旗が建てられています。幟は武家に男児がいることを知らせるために始まったように言われていますが、江戸時代後期にはこんな風に競うように各家で幟を建てられていたのです。この大幟の先に小さな鯉が括りつけられたのが鯉のぼりの始まりです。大幟には「鯉の滝登り」がよく描かれ、、竜門の滝を登り切った鯉が龍になるという中国の故事にちなんで、その先に天に登るように鯉を付けたのです。ならば、龍の姿にしておけばよかったのにと思いますが、やはり龍の姿を庶民が表すのは憚られたのでしょう。鯉のぼりも大幟も天に向かって大きく建てるのが端午の節句の祝いの本義です。鍾馗さんの旗も厄除けによく建てられました。すべて、天の神様に向けて子供らが健やかに育つようにとの祈りをかたちにしたものです。天に登るように建てることから「のぼり」と名付けられていますので、川面にぶらさげた鯉のぼりは「のぼり」とは呼びにくいですね。まあ、それはそれで楽しくはありますが、我が子、我が孫のために建てる鯉のぼりとは若干、意味合いが異なるように思います。

 

端午の節句は、清少納言も「節(せち)は端午にしくはなし(端午の節句は最高だわ!)」と言っているように、男女問わず、日常からかけはなれた楽しい祝日でした。

連載 五月人形の重箱のスミ 61

神天鍾馗(じんてんしょうき)  ~その一~

  神武天皇

神武天皇(当店でご覧いただけます)

 

 昔から神天鍾馗とひとくくりに呼ばれ、端午の節句にはよく二体一緒に飾られました。

 神武天皇は天皇家の祖、初代天皇です。なかなか難しい人形で、強そうでなければなりませんが、更にそこに知性と品性が感じられなければなりません。また、身につけるものにいくつかの決まり事、つまり「様式」があります。手にもつ弓は一般的なものではなく「梓弓(あずさゆみ)」といって独特な質感・かたちのものです。そして、その先には金のトビをとまらせます。金のトビは金鵄と書き、戦前の金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来にもなりました。剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」をイメージした直剣で金属の鞘、柄は蕨頭(わらびがしら)。首には三種の神器の「勾玉(まがたま)」と「鏡(銅鏡)」をかけているなど、多くの決まりごとがあり、どれも欠かすことはできません。

 神武天皇が日向の国から東征し、橿原に都を開いたことから奈良時代、平安時代に至る長い歴史が始まります。橿原に神武天皇を導いたのが八咫(やた)の烏で、サッカー日本代表のシンボルマークにも用いられています。三本足の烏です。神話ですのでいろいろな説があります。

 

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端午の節句のしつらえ 「座敷幟」

旗が何本も立っています。これが「座敷幟(ざしきのぼり)」です。

 

今年もご用命をいただき仕立てることができましたが、来年はわかりません。伝統とか文化とか言われて久しいのですが、このようにまさに風前のともしびという物が私たちの仕事のまわりにはたくさんあります。恐らく、木造建築とか指物、漆器、呉服など伝統的と思われている業種はすべて同じような状況にあると思います。

この座敷幟には欄間職人の彫る木彫が指物師のつくる木枠にふんだんに組みこまれ、そこに絵の描かれた縮緬や塩瀬の裂地の旗、シャグマとよばれる白い毛の毛槍や金箔押の千成瓢箪(せんなりびょうたん)などの旗指物・上物(うわもの)が立てられます。それぞれ別々の職人がこしらえたものをまとめるのですが、そうした知識や技術を備えた人形屋がほとんどいなくなってしまい、自然とそうした品に触れることがなくなり、お求めになるお客様もいなくなってしまうことでこうした品は絶滅することになります。

この写真の大人の顔の武者人形、両脇の弓と太刀はすでに作られなくなってしまった品物です。桐塑に奉書紙の毛並みの白馬は、作者がご高齢のため数年中にはできなくなります。雌桑の縁の遠山柄の屏風は作っていただける表具屋さんは一軒しかありません。下に敷いてある緑のウールのフェルト毛氈でさえ、国内メーカーは1社になりました。どの職人、どの下職さんがいなくなっても同じようなしつらえをお揃えすることはできなくなります。

職人さんに仕事を続けてもらうには、わたしたちが「注文する」しか方法はありません。この世からこうした「仕事」がなくなるかどうか、それを見届けたくないためにがんばってご紹介をし続けています。

連載 五月人形の 重箱のスミ 60

端午の節句の三太郎

  すなわち、金太郎、桃太郎、浦島太郎 ~その四~

  浦島太郎

すみません、浦島太郎の人形がなくて・・

 三人目の浦島太郎。この話はわが国でもっとも古いお伽話とされています。元のお話では亀が異界のお姫さま本人だったりと、今知られている内容とはやや違う部分もありますが、概ね同じような筋書きです。昔からお節句に飾られるお人形ですが、金太郎や桃太郎は強い、優しい、出世、などで飾られる理由がわかりますけれども、この浦島太郎にはそれがありません。動物を大切にしようとか、今風ならば環境を守ろうということなのでしょうか。

 源氏物語に「 物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁 」とあるように、「物語」として一番古いのは「竹取物語」といわれていますが、実は浦島太郎の話はそれより古く日本書紀にも「浦島子」の話として出てきます。

 浦島太郎の神社として有名なのは、京都・丹後半島にある宇良神社(浦嶋神社)です。御祭神が浦島太郎です。

 余談です。竜宮城のように昔話にはたびたび龍が出てきますが、この龍はすべて同じ一頭の龍だという説があります。それは、龍には子供がいないということになっているからです。龍生九子といって、龍には九匹の子がいたのですが、全員龍になれませんでした。その九匹の子の中に「贔屓(ひき)」という子がいます。めっぽう力が強い子で亀のかたちをしています。太郎の乗った亀がこの贔屓かどうかは知りませんが、関わりがあるのかもしれません。贔屓は力が強いので、よく神社などの柱の下で建物を支えているのを見かけます。この贔屓をひっぱると柱が倒れてしまうことから「贔屓の引き倒し」という言葉が生まれました。お店で「どうぞごひいきに~」と言うのは、「うちの屋台柱(屋台骨)を支えてください」という意味になります。また、ヒキガエルはなんとなく力が強そうで、贔屓を想起させるとことから名付けられました。

 面白いのは、浦島太郎の竜宮は海の中ですが、日本の昔話に出てくる龍はたいがい山の中の滝つぼに住んでいる点です。

 龍については、後ほど兜のお話の中で改めて触れるので、ここらでお預けです。

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連載 五月人形の重箱のスミ 59

御所人形風 桃太郎

端午の節句の三太郎

  すなわち、金太郎、桃太郎、浦島太郎  ~ その三  ~

 二人目の桃太郎。もちろん童話の中の人物です。桃から生まれたという説と、桃をおじいさんとおばあさんが食べたら若返って桃太郎が産まれたという説がありますが、どちらでもいい話です。全国に桃太郎神社は何社かあるようですが、中でも有名なのは愛知県犬山市の桃太郎神社、岡山市の吉備津神社、香川県の熊野権現桃太郎神社です。それぞれにいわれや史跡もあって楽しめます。

 桃太郎の歌は今でも歌われていますが、

 ※ 四番: そりゃ進めそりゃ進め 一度に攻めて攻めやぶり つぶしてしまえ鬼が島

 ※ 五番: おもしろいおもしろい のこらず鬼を攻めふせて 分捕物をえんやらや

というくだりになるとちょっと鬼が気の毒になります。明治末期に作られた歌詞なので時宜には合っていたのでしょう。しかし、この桃太郎に出てくる鬼や一寸法師の鬼は弱い!弱すぎる。ここで退治された鬼たちは本当に悪さをしていたのかしら?これに比べて、金太郎の属する頼光一家の渡辺綱の退治した羅生門の鬼は強くて怖い。鬼もいろいろです。

 桃太郎の頭には白い紙を折りたたんだうさぎの耳のようなものが付けられています。「力紙(ちからがみ)」というもので、歌舞伎の「暫(しばらく)」などの頭にも付いています。力の強い者をあらわす目印となっていて、一見そんなに強そうに見えない桃太郎、実は強いんだよというのを示すために付いているのでしょう。手に持つ「日本一」の旗も定番です。

 

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