連載 五月人形の重箱のスミ 78

甲冑 兜 ~その十六~

 鏡獅子からスピンアウト 「鏡とヘビ」

 

ちょっと宣伝

当店は五月五日まで営業しています。すでに端午の節句の販売を終えてしまったお店もあるようですが、当店は五日まで営業しています。

それは、五月四日にお誕生のお子様にとっても五日は初節句となるからです。毎年のように、五日近くなってお誕生のお子様の初節句用にお客様がいらっしゃいます。玩具やインテリアならいざしらず、お節句の品を扱う以上、五日まで店を開くのは節句品店の務めです。どうぞ、三日、四日にお誕生のお子様にも初節句のお祝いをしてあげて下さい。

 こんな本格的作りで可愛らしい節句飾りもございます

  5万円程(幅60cm)

手作りの木目込人形(兜に菖蒲)。

手作り木綿ののぼり旗、鯉のぼり。

雲母摺り京唐紙の屏風。

純木製(セン、エンジュ)の台(ベニヤ・MDF不使用)

 

 拙著「いま、伝えたい節句のお話」で鏡獅子と鏡餅のことにふれました。鏡餅開きのときに獅子の精が乗り移って舞うことから「鏡獅子」と名付けられているのですが、鏡餅はなぜ「鏡」なのでしょうか。どちらも同じように円くて大切なもの、という関連だけでは鏡餅を二段、ときには三段に積み重ねる理由がわかりません。

 ヤマカガシというヘビがいます。北海道などを除きどこにでもいるヘビですが、この、カガシというのが古来からのヘビの和名といわれています。平安時代の和名抄にはヤマカガシのことを「夜萬加々智」と載せています。

 民俗学の吉野裕子はカガがヘビの古名であるとしてさまざまな検証をしていて、その中に鏡(カガミ)とヘビとの関係性を指摘しています。鏡餅のあのかたちはヘビのトグロからきているのではないかというのです。私はヘビがあまり好きにはなれないので全面的に賛成はしかねますけれど、たしかにうなづける面はあります。少なくとも「鏡→鏡餅」よりは「ヘビのトグロ→鏡餅」の方が、形状の面では似ています。

 鏡が日本に伝わったのは弥生時代といわれていますが、ヘビの古名「カガ」がいつごろからあるのかわかりません。もし、カガの言葉が先にあって鏡の名にこの言葉を適用したのならば、それはなぜなのか。また、カガが後とすれば、なぜ鏡の呼び名にヘビを用いるようになったのか、はたまた、カガミのカガはヘビとはもともと関係なくたまたまそのような名前になっただけなのか、興味は尽きません。

 ずいぶん甲冑から脱線しましたが、次回から甲冑のお話に戻そうと思います。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 五月人形の重箱のスミ 77

甲冑 兜 ~その十五~

 敬老の日の由来

元正天皇の系図

 前回の猩々のお話とよく似た「養老の滝」伝説というのがあります。一般にはこちらの方が知られています。親孝行の息子・源丞内(げんのじょうない)が病気の父親に元気をつけようと、山へ食べるものを採りに行くと、どこやらから良い匂いが漂ってきます。匂いをたどっていくと、滝つぼに出るのですがその滝の水がなんとお酒だったのです。これを酌んで父親に飲ませるとぐんぐん元気を取り戻したというお話です。岐阜県、養老の滝にまつわるお話です。この話には続きがあって、この噂を聞きつけたのが当時の元正天皇(女性)でした。丞内は天皇からお褒めのご褒美をいただき、以来家族ともども安楽に過ごすことができたということです。元正天皇は元明天皇(女性)の娘で、持統天皇(女性)から文武(男性)、元明と続いた皇統は元正でわが国最初の女系天皇として践祚します。そして、年号を「養老」と定めました。この日が九月十五日で、敬老の日の由来になったという説もあります。元正天皇はたいへん聡明で慈悲深い方と伝えられています(続日本紀)。

 元正天皇からすると、お母さん(元明天皇)はお姉さん(持統天皇)の息子、つまり甥と結婚して生まれたことになります。お父さんの父親は天武天皇なので、単純に「女系天皇」と割り切ることはできません。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 76

甲冑 兜 ~その十四~

 唐獅子④

猩々

 唐獅子と似たような姿のものに、「猩々(しょうじょう)」があります。こちらはライオンではなく、オランウータンが原型ではないかといわれています。ボルネオ島に生息しているので、南アジアの人々が目にし、絵で伝えられたりしていても不思議はありません。

 中国揚子江の近くの金山というところに親孝行物の高風(こうふう)という若者が父親と住んでいました。なんとか親を楽にさせてやりたいと考えていると、市場で酒を売りなさいというお告げを夢で見ます。こうしてお酒を売り始めると、次第に生活も楽になり始めますが、その客の中に毎日お店に来て酒を飲むのにちっとも酔わない男がいるのに気が付きます。不思議に思った高風が名前を尋ねると、自分は猩々という海にすむものだと答えます。そこで、ある月夜の晩、高風が酒を用意して揚子江の川辺で待っていると、波の間から猩々が現れます。二人は酒を酌み交わしたあと、猩々は高風の親孝行をほめ、「酌(く)めどもも尽きぬ」酒壺を与えて水中に帰って行きました。猩々はお酒好きなので、能や人形でも髪の毛から衣裳まで赤い姿で表されます。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 75

甲冑 兜 ~その十二~

 唐獅子③

連獅子

 唐獅子はインドライオンかもしれませんが、仏教や能、歌舞伎では牡丹の精、聖獣と言われています。能や歌舞伎に「石橋(しゃっきょう)」という演目があります。お話は、慈覚大師や弘法大師よりも百数十年の後のこと、中国に渡った寂昭(じゃくしょう)法師が経典を求めて清涼山(せいりょうさん)の麓(ふもと)へたどり着きます。そこから山中へ入る細い石の橋があり、周囲には牡丹が咲き誇っています。寂昭法師がいざ橋を渡ろうとすると、あの赤い毛の獅子が躍り出て法師の前で舞い踊ります。ときに紅白二体のときもあり、この時は赤い方がより活発に踊ります。これは、親子の獅子で、赤い方が子獅子なのです。よく、獅子は我が子を千尋の谷底に突き落とし、無事登ってきた子だけを育てるといいますが、児童虐待ですね。ま、子を甘やかしてはいけないという教訓ととらえましょう。牡丹の精なので、よく牡丹と一緒に絵に描かれます。健さんの「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」を思い浮かべる方も多いでしょうが、本来は仏教思想に基づいた格調高い絵柄なのです。中世には勝手に用いることのできない絵柄で、この後、鎧のお話で述べるつもりですが、「正平六年六月一日」のように朝廷の許可の必要な高貴なものでした。鎧や兜の絵革の文様にはよく使われます。

 ごくたまに「天平十二年八月」と書かれたものもあります。これにも唐獅子牡丹や不動明王がよく描かれています。天平ですから、正平より古いかと思ったら、これは江戸時代に考案されたもののようで、「天平革(てんぴょうがわ)」「天平御免革(てんぴょうごめんがわ)」とよばれ珍重されたそうです。江戸時代の偽装表示です。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 74

甲冑 兜 ~その十一~

  唐獅子 ②

神社の柱の唐獅子(右は獏、左は龍)

 「唐獅子」の意味は、「唐(中国七~九世紀ごろ)の国のライオン」ですが、中国にライオンはいません。

 唐の時代はインドから伝来された仏教がさかんになっていて、僧を中心にインドと行き来が多い時代でした。そのインドには「インドライオン」がいるのです。姿かたちはアフリカのライオンとそっくりですが、やや小ぶりです。頻繁な行き来の中で、僧侶やその周辺の商人たちがインドライオンを中国に持ち込んだものと思います。仏教とライオンが関係あるのかといわれれば、あるのです。文殊菩薩が乗っているのが獅子(ライオン)なのです。

 文殊菩薩と言えば、私などには「三人寄れば文殊の知恵」くらいしか思い浮かびませんが、最澄とともに日本で最初に大師号を与えられた慈覚大師(円仁)が伝えた大乗仏教の象徴でもあります。慈覚大師は、九世紀に苦難の末に唐にわたり修行をおさめた方で、弘法大師より少しお若いですが先に大師号を得られました。最澄、弘法大師にくらべ人口にのぼることの少ない方ですが、あのライシャワー博士によって詳細な研究がなされて戦後は評価が高まっています。ライシャワー博士はご存知のように米国の駐日大使を務められた方ですが、日本の国文学者でも手を焼く難解で膨大な漢文による慈覚大師の日記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」を解読し、解説しています。この中に、道でライオンに出くわしたお話が出てきます。この旅行記は世界三大旅行記のひとつになっています。他のふたつは、「大唐西域記(例の三蔵法師のお話)」、「東方見聞録(ご存知マルコポーロ)」です。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 73

甲冑 兜 ~その十~

 唐獅子(からじし) ①

兜の唐獅子

 エンゼルス時代の大谷選手の兜には龍頭(たつがしら)ではなく、唐獅子(からじし)がついていました。かつてはお節句の飾りには唐獅子のついた兜も多く、龍と半々くらいでしたが今では唐獅子の前立(まえだて)はほとんど見ることがなくなりました。原因は、木彫りの龍が海外で安く大量に作られるようになり、多くの業者がそれに依存することで龍や唐獅子を作る国内の職人がいなくなってしまったのです。愚かなことでした。大谷選手の兜を作った九州のメーカーにはたくさんの問い合わせがあったようです。節句用の鎧兜というより、映画撮影やお祭りなどの用途に特化した甲冑メーカーさんなので私たちの扱うお節句用の兜の作りとはちょっと違います。少し前に「着用兜」っていうのがお節句の飾りでも流行りました。着用兜は玩具のようなものですが、それを本物っぽくした作りです。一般に販売されている着用兜は、文字通りお子様の「着用」にこしらえられているので、節句のしつらえには本来向いていません。あくまでお子様のコスプレ用です。お子様がかぶってもいいように安全で軽く、かぶった姿はとてもかわいいものです。着用兜をお求めになる方は、それとは別にお節句用の鎧兜もご用意いただくことをお勧めします。

 節句飾りは、「厄除け」「お守り」として「祈り」の対象になりうるかどうかがおもちゃと根本的に異なる点です。着用兜はあくまで「着用」であって、本来ならばお節句の兜をご用意していただいた上で、それとは別にコスプレ用にお求めいただく兜です。もちろん、実際にかぶれるような大きさのちゃんとしたお節句用の鎧・兜もあります。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 72

甲冑 兜 ~その九~

 龍って?

西洋の龍

 ここまで何気なく龍という語を使ってきましたが、龍とはいったいどのように生み出された生物なのでしょう。

 西洋にも龍=ドラゴンがいます。ほとんど同じような姿ですが、あちらの龍には翼が付いています。東洋の龍には翼がありませんが、空は飛べます。

 民俗学の吉野裕子は、龍の元は蛇ではないかと解いています。蛇は脱皮して成長するところから、そのたびに新たに生まれ変わる神聖な生物であり、そこからさまざまな信仰が生まれたというのです。赤い舌をちろちろ出すところからは炎を吐くことを連想させます。また、多くのヘビのオスには生殖器が二本あり、それを見た人が足と誤解し足があるなら手もあってしかるべしということで、手足があり口から炎を吐く生物が創造されたということです。神話などに出てくる大蛇(オロチ)は、多くの場合龍との境目がはっきりしていません。先の俵藤太の踏んづけた大蛇も龍王の化身ということです。

 ヨーロッパ、中東、インド中国のいずれが発祥の源か知りませんが、どの地域にも同じような姿の空飛ぶ龍がいるのは不思議です。

 龍についてはまだまだほじくり足りませんが、どんどん兜の龍頭から離れていくのでここら辺で打ち止めにしたいと思います。次回からは唐獅子について。これも面白いです。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 71

甲冑 兜 ~その八~

龍頭(たつがしら)

龍頭のついた兜

話が龍頭と鐘の話からだいぶそれてしまいました。

 兜についている龍頭(たつがしら)には金属製のものや木彫りのものがあります。どちらが良いというものではありませんが、それぞれにできの良し悪しはあります。また、架空の生物なので様式が大切です。龍頭に用いる龍にはヒゲがついていなければなりません。龍の特徴のひとつです。また、龍頭の龍の尾の付近によく見ると剣のようなものがくっついています。これは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)を表しているのではないかと南方熊楠(みながたくまぐす)は指摘しています。尾で巻いているものもありますが、本当は後ろ足のあたりから突き出ているようについている方が良いように思います。

 龍の手は玉を持っています。その手の指は普通三本です。絵や欄間には四本や五本のものもありますが、指の本数に意味を持たせるよりも龍頭の場合には三本が合っているように思います。最近はこの玉はガラスや貴石のものが使われますが、以前は玉も木彫りで作られていました。これもどちらが良いというものではありません。むしろ、木彫りでこしらえる方がたいへんなように思えます。ダイヤモンドやエメラルドならば話は別ですが・・・

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 70

甲冑 兜 ~その七~

その前にお知らせ

ただ今、五月人形 絶賛売り出し中です!

小ぶりながら本格的な兜飾り

桃太郎  楽しいお節句を!

 

鐘といえば道成寺

道成寺の羽子板

 お寺の鐘と蛇と言えば、有名なのが歌舞伎の「道成寺(どうじょうじ)」です。こちらは、通りがかったいけめんのお坊さん安珍に清姫が一目惚れ、修行の帰りに再び立ち寄るからと約束したもののあっさり振られた清姫が怒り狂って大蛇となって追いかけ、道成寺の鐘の中にかくまわれた安珍を鐘に巻き付いて焼き殺してしまうという物語です。鐘と蛇とはどうやら深い縁があるようです。

 羽子板によく用いられる外題(げだい)のひとつに、この道成寺があります。たまに、縁起物なのにどうしてこんな縁起の悪そうなものを採り上げるのか、とお尋ねいただくことがあります。羽子板にはこのほかに「汐汲(しおくみ)」「浅妻(あさづま)」「藤娘」などがよく用いられますが、そういう意味では縁起のよさそうなものはありません。

 わたしたち人形屋が、羽子板は女の子の初正月の縁起物として売り出しているのでこのような齟齬が生じるのですが、もともと、羽子板の日本舞踊の外題にはあまり意味がないのです。例えていうなら、玉三郎の道成寺がとても美しかったので羽子板にしてお部屋に飾るようにした、という感じ。道成寺がどうこうというより、玉三郎の清姫がすごくきれい!というのが大切なのです。歌舞伎に興味のない方には、「かあちゃん、おれ、人を殺しちまったよ」と歌うフレデイ・マーキュリーのポスターを部屋に貼るようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。そんな縁起の悪いものを!とはだれも言いません。道成寺の物語は、だれもが芝居の上のことだとわかっているので、その姿が美しければそれでいいのです。

 

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連載 五月人形の重箱のスミ 69

甲冑 兜 ~その六~

 鐘にまつわるお話

 

この辺りから読みはじめられた方は、「甲冑 兜なのになんで鐘の話?」と不審に思われるでしょう。

改めてご説明すると、兜の前に付いている龍の彫物、あれは「龍頭(たつがしら)」と呼びます。人形業界の方たちでも「りゅうず」と呼ぶことが多いのですが、りゅうずと読んだ場合には腕時計のネジを指すのです。その語源は、鐘の先端、吊るせるように輪っかになっているところをそもそも「りゅうず」と呼んだところから来ているという話から脱線して、未だに本線に戻れず鐘の話をしているのです。

つけたりですが、「龍頭(りゅうとう)」と読むこともあります。「竜頭蛇尾(りゅうとうだび)」ですね。この場合もう一つ、仏教の行事で幡(ばん)を吊るす時の龍の頭の形の金具もこう呼ぶそうです。では、続きを

これは大須観音の鐘です。鐘楼も立派です。残念なのは鳩除けの金網。

 

 その後、文保二年(1318)、後醍醐天皇のころ三井寺が炎上し、この鐘は比叡山延暦寺に移りますが延暦寺ではどれだけ突いても鳴りません。それならばと大木の橦木をもって数十人で力いっぱい突くと、クジラのような声で鐘が「三井寺へ行こう(イノ~)」と鳴いたということです。山門衆はこれに腹を立て、山の上から鐘を投げ落とすと粉々に割れ砕けました。その破片を拾い集めて三井寺に送りつけたところ、その晩、小さな蛇が破片の間を尾で撫で回り、朝には元通りの鐘になっていたということです(太平記版)。南方熊楠(みなかたくまぐす)は、これを、「龍王がくれたものだから鐘の龍頭が神異を現じたということだろう」と述べています。

 また、三井寺のこの鐘には径十五センチほどの円い瑕(きず)があるそうです。これは、その三百年ほど前、赤染衛門(あかぞめえもん)が若衆に化けてこの鐘を見に来た時、鐘を撫でた手が離れなくなり、むりやり引きはがした時の痕(あと)だということです。赤染衛門は紫式部と同世代で、百人一首にも載っている歌人です。夫は大江匡衡(おおえのまさひら)で、尾張の国司として夫婦で赴任してきており、灌漑用水として作られた大江用水、大江川はその名を今にとどめ、現在も江南市から一宮、稲沢、あま市と流れています。たいへん仲の良い夫婦として知られ、命日も同じと伝えられています(赤染衛門の方が少し長生き)。後の尾張の繁栄の礎を築いた恩人といえるでしょう。

 一方、三井寺の縁起によれば三井寺炎上のとき、弁慶はこの鐘を延暦寺に引きずり上げたところ、いくらついても鳴らないので力まかせに鐘を山から投げ落としたとされ、かつてはこのお話を基に「釣鐘弁慶(つりがねべんけい)」、「釣弁慶(つりべんけい)」という節句人形がよく作られました。三井寺には今もこの時の鐘が「弁慶鐘」として鎮座しています。二トン以上あるそうです。文保二年と弁慶の時代とは百年以上の開きがあります。この鐘は何度もこわされ、そのつど蛇が直していたのでしょうか?

 

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