人形供養

人形供養

 ことしも10月3日(木) 午前中(9時~12時)、大須観音様で

 人形供養を執り行います。

 

 ご家庭で保管できなくなってしまったお人形類がございましたら、

 丁重にご供養させていただきます。

 当日、直接大須観音様境内の特設受付にご持参ください。

 (当日ご都合の悪い方は、事前に組合HPぶろぐ掲載の受付店に

  ご持参ください)

 供養料はお気持ちですが、だいたい一体、もしくは一組3000円

 程度からとなります。

 金属ひな段や、ガラスケースなどうけたまわれないものがございます

 ので、ご相談ください。

 端午の節句の鎧兜、ぬいぐるみ等も承ります。

全国でも屈指の荘厳な供養会です。

連載 重箱のスミ ㉜

五人囃子 その一

 〇五人囃子の袖

 着物の「小袖」と「大袖」の違い。なんとなく、小さい袖が小袖で、振袖のような大きな袖が大袖と思いがちですが、実は、袖の大きさには関係なく、手の出るところが小さく開いているのが「小袖」で、女雛の十二単のように手の出る部分が縫われていなくて大きく開いているのが「大袖」なのです。

 いま、五人囃子の袖はほとんどが袖口がひらいている「大袖」になっています。本来ならば、手の出るところから下は縫いとじられていなければならないのですが、下着が見えるようにできています。これは、平成の始めのころに現れた作りで、一見、下着のかさねが見えてきれいなような気がしますが、実はこの作り方の方が直線縫いだけでできるので簡単ということらしいのです。

 本来ならば、手の出るところの下は後ろに向かって丸く縫われていなければならないのですが、これがなかなか手間がかかります。昭和以前の五人囃子には今のような袖のひらいたものはありません。これは、そういうものだからです。新しいお雛さまで、小袖の作りになっている五人囃子をお持ちでしたら、それはかなり良いお雛さまかもしれません。

 また、最近ときどき見かけるのが、腰の左側に脇差(小刀)が差し込まれていない五人囃子です。さらには、脇差が下に置いてあるものもあります。飾り方説明書にそう書かれているものも見たことがあります。人形なので、きれいとか可愛い、ということである程度のことは許されるとは思っていますが、理由のない単なる手抜きか無知である場合には責められてもいいと思います。人形の着付師は脇差を差し込みやすいように袴を作るか、最初から脇差をつけておく必要があります。切腹のときには座った前に脇差が置かれ、抜いた鞘を後ろに置いて腹を切ります。縁起でもありません。

袖の前部分が縫われていません。   縫われています。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ㉛

女雛 その十六

 単(ひとえ)のひねり

  ひねる!
写真の衣装の単(女雛の緑色の部分、男雛のオレンジ色の部分)は周縁が全部コヨリのように丸めてあります。これをヒネリといいます。上着(五つ衣や表着)の裾は床に引きずるように長くなっていますので、どうしても傷みます。そこで、その下に着る単を上の衣より一回り大きく作り、五つ衣などの上着が直接床に接しないようにしています。単は、裏のついていない、一枚の布を縫って仕立てた簡単なつくりの衣です。

 この単の衣は端っこにうすく糊を付けてひねられ、その部分がすり切れたりすれば、また少しずつひねることができます。単の衣装は、この、すその部分だけではなく袖、襟もとなど周縁すべてがこのようにひねられています。江戸時代のころのお雛さまは、男雛・女雛だけでなくその他のお供の人形たち(官女、五人囃子や随身など)も同様になっています。

 このヒネリ、簡単そうですがけっこう大変な作業で、単を仕立てた後、少しずつ糊をつけて丸めていきます。特に角のところは丸くならないように慎重にしなければなりません。

 ひねることによって周縁が固くなりますので、折って縫うよりも装束の形を美しく整えることができます。徳川美術館に展示されている雛人形の多くはこのように仕立てられており、かつては普通にこの方法で仕立てられていたことがわかります。実際の装束がそうなっているので、そのように作られているだけなのです。

現代でも一部のお雛さまでこうしたつくりを見ることができます。

女雛の裾の裏側            男雛の袖口

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ㉚

女雛 その十五

 唐衣 ~五~

 衣と書いてキヌと読むことからもわかるように、平安時代ころには公家の衣裳はすべて「絹」で作られていました。農民などの庶民の着物は、それに対して布すなわち苧麻(ちょま:カラムシ、イラクサ)や麻などの繊維で、木綿は当時は舶来品で極めて高価なものでした。木綿がわが国で栽培され始めたのは鎌倉~室町時代のころといわれています。当時のお触れにも、庶民は苧麻などの着物、庄屋クラスで紬(つむぎ:くず絹をつなぎ合わせた糸で織った布)まで、とあり、絹の着物を着ることは許されていませんでした。紬は、今でこそ大島紬など高級品の代名詞ともなっていますが、宮中では紬の装束はありえませんでした。

「から衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」

 古今和歌集にもある在原業平の唐衣の歌です。それぞれの句頭を取り出すと「かきつばた」となることでも有名です。「着つつなれにし」は着慣れるとともに「着続けてよれよれになった」意味も含まれ、それを糊で洗い張りしてしゃんと「張って着る」という、二重三重の意味がかけられています。

 当時の結婚は男性の通い婚、夫が来る時には妻は唐衣に裳をつけた正装で出迎えたということです。

「着つつなれにし・・」ほどではありませんが、柔らかく着せ付けられた唐衣。チョウチョが向かい合った文様です。後でふれますが、こうしたお人形にはイ草の畳の台が必須です。

今回で「重箱のスミ」も30回を迎えました。どうでもいいような、すみっこをほじくり返すようなことでも、回をかさねるとけっこう楽しいものです。そして、意外とたくさんのものごとにつながっていることが見えてきます。まだまだ続きますよ~!よかったらご意見をお聞かせいただけるとうれしく思います。

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

たなばた と お盆

昨日は七夕。旧暦でのお話。今日でおかたづけ。
 お盆ももうすぐ。今日、最後のお盆提灯のお客様が受け取りにいらっしゃいました。これもおかたづけ。
 盆提灯を人形屋が扱っているのを不思議に思う方がいらっしゃるけど、昔からの人形屋は「際物屋(きわものや)」と言って、季節季節のしつらえを扱うので、お盆提灯はむしろ人形屋で買うものでした。最近は雛人形などもおもちゃかベビー用品として扱うお店がほとんどで、「しつらえ」という概念からはずれてししまった感があります。
 ところで、この葉っぱの飾りものは「乞巧奠(きこうでん)」といって、たなばたのしつらえです。葉っぱは「梶」の葉です。願い事を書く短冊の原型です。

 

 

連載 重箱のスミ ㉙

女雛 その十四

 唐衣 ~三~

 日本人ではじめてパリのオートクチュール協会のメンバーになった森英恵が、この平安時代の装束抄をヨーロッパに紹介し、欧米のファッション界を驚かせたことはよく知られています。また、「マダムバタフライ」と呼ばれた彼女のトレードマークの蝶のデザインは、正倉院にも収蔵される装束の有職文様からとられていて、唐衣にもしばしば用いられています。平安時代に研ぎ澄まされた造形と色彩感覚は、現代のファッション界にも大きな影響を与えていると言ってもいいのかもしれません。と言いながら、私はファッションに関してはまったくの素人なので、ちょっと大げさな表現かもしれないことを付け加えます。

 西暦1000年頃、ヨーロッパでは大きな侵略戦争が続いていて、文化的には「暗黒時代」と呼ばれています。日本では1000年を中心に数百年にわたり大きな戦乱のない時代を享受していました。こと、「文化」については平和は絶対的な条件と言っても過言ではありません。世界最初の小説、しかも長編、女性作家による「源氏物語」が生まれたのもまさにこの時代です。

古典的なチョウチョの文様(写)

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ㉘

女雛 その十三

 唐衣  ~その二~

 前項㉗で五つ衣に触れましたが、平安時代からこの五つ衣と単、表着、唐衣の色柄の組合せ、かさね方は当時の女性たちもかなりこだわっていたようで、多くのコーディネート本が著わされています。有名なのは平安時代末期の源雅亮(みなもとのまさすけ)著の「満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)」で、他にも室町時代中頃、一条兼良(いちじょうかねら)の著わした「女官飾抄」、室町時代末期、聖秀尼宮(しょうしゅうにのみや)の「曇華院殿装束抄(どんげいんどのしょうぞくしょう)」などがあります。これらをまとめられた京都市立芸術大学・故長崎盛輝名誉教授の著書「かさねの色目」はわたしたち人形関係者の聖書(ばいぶる)となっています。この「かさね」には「重」と「襲」の二通りの漢字が与えられています。「重」は一枚の袷(あわせ)の衣の裏表のこと、「襲」はその衣を何枚も着装して表される衣の色の組合せのこととされ、今ではこの二通りの文字でその意味がわかるようになっています。

「かさねの色目」の中の「満佐須計装束抄」  原本は実際に染められた布地が貼られています。

美しく見える着物のかさね方が何十通りも記され、それぞれ優雅な名前がついています。平家物語などに女性の装束の説明がよく出てきますが、これがあるとカラフルにその姿が想像できます。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ㉗

女雛 その十二

 唐衣  ~一~

  フォーマルなショートジャケット

 「からころも」または「からぎぬ」と読みます。十二単装束の一番上にくる、丈の短いコートまたはジャケットのようなもので、ほぼ必ず裳と一緒に着られます。裳(も)のところで述べたように、この唐衣には帯や紐はついておらず、裳の帯で締められます。

 令和天皇の即位礼でも見られたように、装束の一番最後に唐衣の上から裳でまとめられますが、古い絵巻などでは裳を付けた後、その上から唐衣を着たようなものもあり、時代によって着方もいろいろあるのかもしれません。

 雛人形では、この唐衣とその下の表着(うわぎ)、さらに袖・襟口に出る五つ衣の色・柄の組み合わせが作者のセンスが問われるところです。さらには、男雛の装束とのバランスも重要となってきます。有職系の雛人形の場合、男雛の束帯に表される位などに女雛も強く影響されます。この辺りの「格」を理解していないと妙なバランスの内裏雛(男雛女雛一対)になってしまいます。

めずらしく、このお雛さまは裳の上に唐衣を着ています。オレンジ色の部分。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ㉖

女雛 その十一

  鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ・とりげりゅうじょびょうぶ)について

重箱のスミ ⑳でふれた鳥毛立女屏風について追加のご説明です。

 この屏風は、画工が顔、手足などを描き、衣服の線を薄墨で描いた上に工匠が羽毛を貼り付けて作られています。羽毛は日本産の雉(きじ)と山鳥が使われており、高さは四尺六寸(約一三八センチ)一扇の巾が一尺九寸(約五十七センチ)で、今はばらばらになっていますが元は六扇がつながったものだったそうです。DNA鑑定によって日本の鳥の羽毛で作られたことがわかり、それによって日本製であることが証明されたのです。まさに「へえ~」ですね。

 同じ時代に「鳥毛篆書屏風(とりげてんしょびょうぶ」と「鳥毛貼成文書(屏風(とりげてんせいもんじょびょうぶ)」という、文字の上に鳥毛がほどこされた屏風ががあり、いずれも正倉院の御物(ぎょぶつ)になっています。中国にはこうした画法の屏風はないようで、わが国独特の絵画工芸です。

 あとで屏風のあれこれに触れますが、このころからすでに屏風の基本形は六扇(六曲)でした。

鳥毛立女屏風の一部(写)

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ㉕

女雛 その十

 檜扇(ひおうぎ)

 檜扇は、男雛が持つ「笏(しゃく)」という板が発展したものと言われています。現在では宮司さんが読む祝詞は紙に書いてありますが、昔は笏に書かれていたそうです。この祝詞が長いと一本の笏に書ききれず、何本かの笏に書かれることになり、それを要(かなめ)で綴じたのが檜扇のはじまりといわれています。平安時代には女性の必携品となり、扇子のようにあおぐよりも顔を隠す役割の方が大きかったようです。男性がのぞき見しているのに気づいて、あわてて顔を隠すのに檜扇が間に合わず髪の鬢(びん)で隠すようなこともあったようです。

 実際の檜扇もそうであるように、扇の両端には松や橘の造花が飾られ、長い五色の紐がさげられています。畳むとき、この紐でくるくると巻くためです。

 日本で紙が作られるのは奈良時代以降です。また、仏教が伝来する6世紀ころまで、日本には「文字」がありませんでした。したがって、そのころの日本の様子は「魏志倭人伝」はじめ、中国や朝鮮の記録に依って窺い知るしかありません。8世紀初頭に書かれたという「古事記」は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)するのを太安万侶(おおのやすまろ)が書き取り、編纂したと言われています。誦習は暗誦とはちょっと違うようで、それまでにあった色んな資料を調べ、まとめたものを口述筆記したということらしいです。

 古事記、日本書紀がわが国ではもっとも古い書物なのですが、それ以前の7世紀に「帝記」「旧辞」という書物があったとされ、それらに記されていた内容と口伝が記紀にまとめられたと言われています。      ~つづく~

 

檜扇  手描きで松竹梅鶴亀などが描かれ、松橘の飾り花と五色の紐がついています。

お人形によって、いろいろなタイプのものがあり、有職系のちゃんとしたお雛さまにはこのような檜扇がつけられます。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。