端午の節句の主役「神功皇后」と、「八幡」 ~その①~
神功皇后。中央のひげのおじいさんは武内宿禰、抱いている赤ちゃんが十五代・応神天皇です。左の人はただの旗持ち。旗と書きましたが、これが「幡(ばん)」です。
江戸時代から戦後にかけてもっとも人気のあった節句人形は神功皇后でした。鎧をつけ、はちまきをしめ長刀(なぎなた)を手にしたりりしい姿で、多くの場合赤ん坊を抱いたひげのおじいさんと一緒にいます。白馬に乗っていることもあります。ひげのおじいさんは八百歳まで生きていたといわれる武内宿禰(たけのうちのすくね)で、抱いている赤ちゃんが皇后のお子様の応神天皇です。
神功皇后は大正十五年(昭和元年)に皇統譜が定められるまでは第十五代の天皇に数える歴史書もありましたが、さまざまな事情から皇統から外されてしまいました。そう、皇統は時代によって変化しているのです。現在、皇統と呼ばれているものは昭和元年に定められたものなのです。また、南北朝時代の北朝の天皇もいまは皇統譜から外されていますので、現在の百二十六代令和天皇も違う代数にする学者もいます。
妊娠中の身で三韓征伐に出かけたことが有名ですが、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は皇后が出かけるときに亡くなってしまいます。そのため、子の応神天皇は胎内にあるときから天皇になることが運命づけられ胎中(たいちゅう)天皇とも呼ばれました。帰ってきた神功皇后は応神天皇を無事出産しますが、践祚(せんそ:皇位につく儀式)することなくそのまま約七十年間実質的に皇后が天皇の役目を果たしました。つまり、応神天皇が天皇になったのは七十歳を過ぎてからなのです。従って、昭和以降、わが国ではその約七十年間、天皇が存在しなかったことになってしまいました。
落語では神功皇后とならんで太閤秀吉も人気があったように言われていますが、主に関西を中心に人気が高かった秀吉に比べ、神功皇后は全国的に人気がありました。
神田祭でも神功皇后の山車が明治時代まではあったのですが、現在は千葉の諏訪講の祭に用いられているそうです。この他、全国の祭の山車に皇后の人形は飾られています。(近隣では、東区筒井町・天王祭の山車、中区・若宮神社の山車、桑名市・石取祭の祭車など)
もし、十五代天皇に数えられていれば初めての女性天皇として最近の皇室後継問題にも影響を与えたかもしれません。大正天皇の后、貞明皇后はこの神功皇后に深く心酔していたと伝えられています。また、四十五代聖武天皇の后、光明子すなわち光明皇后にも傾倒していたと言われています。これは、虚弱だったと伝えられる聖武天皇を支え続けた皇后の境遇に親近感を覚えたのでしょう。皇族以外ではじめて皇后になったのも光明皇后です。癩病患者のために千人風呂を作り、自ら患者の背中を流したと伝えられる皇族ボランティアの先駆者ともいえる方です。この聖武天皇と光明皇后の娘は四十六代孝謙天皇となり、さらに重祚(ちょうそ:二度天皇になること)して四十八代 称徳天皇にもなっています。ちなみに聖武天皇の先代、四十四代元正天皇は、皇后や皇太子妃ではなく独身で初めて天皇になった女性です。
この辺りの歴史を垣間見ると、現在の性別にからんだ天皇の後継問題は昔の方がかなり進んでいるような気がします。
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