飾兜と三方八足、家紋
前回お届けした「特別編 端午の節句、五月人形の本当のトコロ」に多くのご反応をいただきました。改めてネット上で調べてみると、お節句を扱っておられるお店の説明のほとんどが「端午の節句=初めての午の日」となっていますので、それについてのご質問もありました。
いろいろなご説があってもお節句が盛り上がっていいのです。
「続日本紀」、「御堂関白記」など平安時代には多くの日記形式の書物があって、それらには端午の節句のことは「五月五日節」「端五節」「重五節」と書かれています。平安後期に「端午」という記述があらわれ、江戸時代の学者は「書き間違えたのだろう」と述べています。日本のこうした現代にいたるまでの多くの書物の中で、五月五日以外の午の日に端午の節句を行った記述を探すことはできませんでした。また、中国の書物にもないようです(これは実際に調べていないので伝聞です)。
また、中国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自殺した日がこの日なので、五月五日が端午の節句になったと書いてあるHPもありますが、屈原の事件より千年以上前から端午の節句はありますので、明らかな間違いです。
さらに、「尚武」という言葉から、「菖蒲」を飾ることが始まったと書かれているHPもありましたが、これは逆で、菖蒲を飾る「菖蒲の節句」から同じ音の「尚武」が言われるようになったのです。武を尚(たっと)ぶ時代よりはるか前から菖蒲の節句は行われています。平安時代には、「武」はむしろ蔑まれていました。
「節句」という言葉にも少し触れます。「季節の変わり目・・・」のように説明されているものが多いです。節句は「季節の句切り」のような感じがしてわかりやすい言葉ですが、これも江戸時代の有職家・伊勢貞丈が「だれかが書き間違えたんだろう」と述べています。「せっく」の元は「節供」ですが、これは文字通り「お供え」のことです。宴会・催しのことを指すなら「節会(せちえ)」というのが良いでしょうが、もともとは単に「節(せち)」と呼ばれていました。また、平安時代の五節句は「お正月(1/1)」、「白馬の節会(1/7)」、「踏歌祭(1/16)」、「端午節(5/5)」、「豊明節(11月)」で、季節の変わり目でもありません。さらに、現代では一月の節句は七日の「人日の節句」とされていますが、この日はもともと何かを祝う日でも忌む日でもなく単に「占う日」で、しかも、わが国ではこの日にだれも何も占いません。ただ、七草粥をいただくという、よく分からない日なのです。これも解説すれば、人日と七草粥とは本来関係がありません。七草粥をいただくというのは、古代からある「初子の祝い」、つまり初めての子の日に野に出て若松の根引きを行い、七種の若菜の雑炊を食せば寿命がのびるという風習にのっかったもので、初子の日が平安時代に七日に固定され、江戸時代になってさらに人日が重なって「人日=七草粥の日」となってしまったのです。このように、一月七日が五節句のひとつに決まったのは江戸時代の始めで、この件も、前述の伊勢さんは「そんなでたらめなこと・・・」と怒っています。他の四つの節句は3/3,5/5,7/7、9/9となっていますので、1/1であることはしごく当然なのですが、七日に決められた江戸時代の会議では「正月は忙しいから一月の節句はちょっとずらして七日にしよう」と一条氏が言い出して、決まってしまったようなのです。けっこういい加減な気もしますが、そのときどきの都合で決められるという柔軟さが日本のいいところなのかもしれません。
写真は端午の節句飾りのひとつです。だれが見ても「あ、お節句だ」と感じていただけることが大切です。それは、普段の日と違う特別な日を表すしつらえでなければならないからです。中心となるものは兜や鎧、人形などがありますが、いずれも厄除けや形代的な役割があります。もとは天の神様への貢ぎ物・供物でした。各地に残る「奉納鎧」がその最たるものです。これらを飾ることで「健やかに」「大きく」と祈る、その対象の役割を果たし、それを通じて天に祈りを届ける伝声管、今で言えばスマホのような働きをしてもらうのです。ですから、大切なお役目をこなしていただくために「お供え」をしなければなりません。お節句当日にはチマキや柏餅をお供えし、お祝いが済んだらみんなでそれを召し上がって下さい。お供えをし、祈り、それをいただくことで天に祈りが通じたことになります。これは特定の宗教上のことではなく、世界中のどの信仰でも行われている典型的な祈りのかたちなのです。
兜のヒツには家紋が描かれています。これは親子の絆を表し、祈りの対象者を明確にするはたらきがあります。その他、様式にある程度のっとっていることが大切です。神社にお参りするときの二礼二拍手とか、鳥居の中央を通らないとかよりもずっと大切な様式・作法がそこにはあります。