連載 五月人形の重箱のスミ 68

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甲冑 兜 ~その五~

鐘と龍

 龍王にもらった鐘 ~俵藤太のお話~

瀬田の唐橋の俵藤太 筆者画

 釣鐘と龍の話があります。

 平安時代、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という豪傑がいました。平将門の乱を鎮圧したという武将です。ある日、瀬田の大橋(琵琶湖)に大蛇が出るとの噂を聞き出かけると、まさに長さ二十丈(六十メートル)の大蛇がかま首をもたげ、眼は太陽が二つあるがごとく、大木のような二本のツノ、黒い鉄のような牙が生え違い炎のような舌を出しています。ところが秀郷、平然とその胴体を踏みつけて渡り通り過ぎていきました。しばらく行くと小柄な老人が秀郷に声をかけます。「私はこの橋の下に二千年にわたって住むものですが、あなたのような豪胆な方に出会ったことはない。そこで相談ですが、私には永年の宿敵がいて、今夜、そいつがやってくる。それを退治をしてもらえまいか」というもの。小男についていくと、琵琶湖の水が二つに分かれ、現れたのが竜宮城。老人は龍王だったのです。豪華絢爛な酒宴の後、夜も更けると遠くから二~三千本ほどの松明(たいまつ)が二列にならんでこちらへ近づいてきます。これは大きなムカデが両側の脚に松明を持って近づいてくるところ。秀郷は自慢の剛弓に矢の箆(の=軸のこと)にしっかりと矢尻の芯をはめた特製の矢三本を持ち、ムカデの頭を射ます。一、二本とも同じところに過(あやま)たず当たるのですが、跳ね返されます。三本目は、矢尻に唾を吐きかけ同じところに射当てると、ついに喉の奥まで矢は突き刺さります。こうして宿敵を倒した秀郷に、龍王は太刀一振り、巻絹一反、鎧一領、俵一俵、赤銅の鐘一つをお礼として贈ります。巻絹は切っても切っても減ることなく、俵の米はいくら取り出しても減らないというお宝で、ここから秀郷は俵藤太(たわらとうた)と呼ばれるようになりました。渥美半島の田原出身なので俵という説もあります。藤太は奥州藤原氏の祖ということでつけられました。釣鐘は寺院のものだからということで、三井寺(みいでら)に奉納します。

 お話によっては老人が若い女性=龍女だったりしますが、いずれにしても龍なのにムカデに悩まされていたのですね。ちょっと不思議です。

 秀郷は弁慶牛若丸より300年くらい前の人ですが、このときの鐘が後々弁慶にまでかかわってきます。まだまだ続く鐘と龍のお話!

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

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