甲冑 兜 ~その六~
鐘にまつわるお話
この辺りから読みはじめられた方は、「甲冑 兜なのになんで鐘の話?」と不審に思われるでしょう。
改めてご説明すると、兜の前に付いている龍の彫物、あれは「龍頭(たつがしら)」と呼びます。人形業界の方たちでも「りゅうず」と呼ぶことが多いのですが、りゅうずと読んだ場合には腕時計のネジを指すのです。その語源は、鐘の先端、吊るせるように輪っかになっているところをそもそも「りゅうず」と呼んだところから来ているという話から脱線して、未だに本線に戻れず鐘の話をしているのです。
つけたりですが、「龍頭(りゅうとう)」と読むこともあります。「竜頭蛇尾(りゅうとうだび)」ですね。この場合もう一つ、仏教の行事で幡(ばん)を吊るす時の龍の頭の形の金具もこう呼ぶそうです。では、続きを
これは大須観音の鐘です。鐘楼も立派です。残念なのは鳩除けの金網。
その後、文保二年(1318)、後醍醐天皇のころ三井寺が炎上し、この鐘は比叡山延暦寺に移りますが延暦寺ではどれだけ突いても鳴りません。それならばと大木の橦木をもって数十人で力いっぱい突くと、クジラのような声で鐘が「三井寺へ行こう(イノ~)」と鳴いたということです。山門衆はこれに腹を立て、山の上から鐘を投げ落とすと粉々に割れ砕けました。その破片を拾い集めて三井寺に送りつけたところ、その晩、小さな蛇が破片の間を尾で撫で回り、朝には元通りの鐘になっていたということです(太平記版)。南方熊楠(みなかたくまぐす)は、これを、「龍王がくれたものだから鐘の龍頭が神異を現じたということだろう」と述べています。
また、三井寺のこの鐘には径十五センチほどの円い瑕(きず)があるそうです。これは、その三百年ほど前、赤染衛門(あかぞめえもん)が若衆に化けてこの鐘を見に来た時、鐘を撫でた手が離れなくなり、むりやり引きはがした時の痕(あと)だということです。赤染衛門は紫式部と同世代で、百人一首にも載っている歌人です。夫は大江匡衡(おおえのまさひら)で、尾張の国司として夫婦で赴任してきており、灌漑用水として作られた大江用水、大江川はその名を今にとどめ、現在も江南市から一宮、稲沢、あま市と流れています。たいへん仲の良い夫婦として知られ、命日も同じと伝えられています(赤染衛門の方が少し長生き)。後の尾張の繁栄の礎を築いた恩人といえるでしょう。
一方、三井寺の縁起によれば三井寺炎上のとき、弁慶はこの鐘を延暦寺に引きずり上げたところ、いくらついても鳴らないので力まかせに鐘を山から投げ落としたとされ、かつてはこのお話を基に「釣鐘弁慶(つりがねべんけい)」、「釣弁慶(つりべんけい)」という節句人形がよく作られました。三井寺には今もこの時の鐘が「弁慶鐘」として鎮座しています。二トン以上あるそうです。文保二年と弁慶の時代とは百年以上の開きがあります。この鐘は何度もこわされ、そのつど蛇が直していたのでしょうか?
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