三種の神器 その四 刀
山田浅右衛門のお話
私が学生のころ、小島剛夕の「首斬り朝」という、たいへん面白い漫画(劇画)がありました。罪人の首を斬る役目を務めている山田朝(浅)右衛門の物語です。数千人の首を斬って、斬り損ないなしという恐るべき手練れでした。
その名前は代々「御様御用(おためしごよう)」として引き継がれ、幕府に重用されていたのですが役人ではなかったようです。初代は将軍吉宗のころの人物で、明治になるまで代々役目は続いていました。斬った罪人たちのために費用を惜しまず供養をしたり、罪人の辞世の句を理解するために俳句を学び俳号まで持っていたような人物でした。一人斬る度に、その夜は死霊に憑かれないよう酒宴を開いて眠らないようにしたとも伝えられています。
この漫画の中でひとつ印象深い話があります。あるとき、あばたづらの侍が酒場の女にその面体を笑われてかっとして切り殺してしまい、それが元で大騒動をおこして朝右衛門のまえに引き出されます。男は「武士の面体(めんてい)を笑った女を殺して何が悪い」と息巻きますが、朝右衛門は静かに「武士に面体は無用、武士が怒るのは『卑怯者(ひきょうもの)』とそしられたときだけであろう。」と諭すと、男ははっとして粛然と首を差し出したというものです。今の大人たちにも(子供にも)読んでもらいたいお話です。(50年ほど前の記憶によるものなので、物語の細部は違っているかもしれません。) ーつづくー
付記:先日、教師から「卑怯者」と叱責された高校生が自殺するという、痛ましいできごとがありました。実は、この「卑怯」という言葉の意味も時代や立場によって大きく変化しています。女に変装して油断させ、隙をみて敵を切り殺すのが英雄譚として語られることもありますし、現代の戦争では飛び道具ばかりですが「飛び道具とは卑怯なり」と言われた時代もあります。また、昨今の裏金問題への政治家の「超」卑怯な、なんの責任をとらない人たちをお手本にすれば、現代では卑怯者という言葉にそれほど深く反応することはないのかもしれません。しかし、純粋な若者に対しての叱責としてはもう少し言い方や言葉を選ぶべきだったのでしょう。残念でたまりません。
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