連載 重箱のスミ⑲

女雛 ~その四~

 裳(も)の(二)

 源氏物語絵巻などを見ると、女性は多くの場合この唐衣や裳をつけていない姿で描かれています(源氏と会う時にはつけます)。普段は唐衣や裳をつけない状態で暮らしていて、この状態では五つ衣や表衣をまとめる帯はなく、小袖・袴の上に打掛のようにまとっているだけの姿です。改まった場合に唐衣や裳を付け、裳に付いている帯ではじめて衣裳を前で結びまとめることができるのです。裳と唐衣はこのように常にセットで用いられるため、裳についている帯は唐衣と同じ裂地(きじ)が用いられます。ですから、前から見ると唐衣の帯のように見えることになります。また、結び目が綺麗に見えるよう裏表とも同じ裂地が用いられますが、雛人形ではそのように作られることはほとんどありませんので悪しからず・・・   ~つづく~

結び方は人形独特のものもあります。中央に五色の糸を通してあります。

 

節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ

これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。

※この記事の無断引用は固くお断りします。

連載 重箱のスミ ⑱

女雛  ~その三~

   裳(も) の一

※何度も繰り返しますが、今回の裳のことも、このように作られていれば良い人形というわけではありません。

女雛の後ろ側の腰にまとっている白いエプロンのようなもの、これを「裳(も)」といいます。人形業界では「裳裾(もすそ)」、「裳袴(もばかま)」ということもあります。

 雛人形の女雛は通常十二単と呼ばれる衣裳を着ていますが、現代の装束の世界では「五つ衣(いつつぎぬ)、唐衣(からぎぬ・からころも)、裳(も)」と呼ばれています。簡単に説明すれば、神社の巫女(みこ)さんが着ているような白い小袖の着物に赤い袴、その上に丈の長い打掛のような衣を何枚も着重ねます。その内訳は、最初に単(ひとえ)という一枚物、そして、袷(あわせ)の五つ衣(五枚の衣)、表衣(うわぎ)、更に、丈の短い唐衣、最後に裳の順です。単と表着の間に衵(あこめ)という衣を重ねることもあります。

「衣裳」という言葉はこの衣と裳の構造からきています。現代の服装(洋服)では裳がないのに衣裳とはこれいかに、ということになり、「衣装」という語に置き換えることになりました。

 源氏物語絵巻などを見ると、女性は多くの場合この唐衣や裳をつけていない姿で描かれています。普段は、唐衣や裳をつけない状態で暮らしていたのです。この状態では五つ衣や表衣をまとめる帯はなく、小袖・袴の上に打掛のようにまとっているだけの姿です。改まった場合に唐衣や裳を付け、裳に付いている帯ではじめて衣裳を前で結びまとめることができるのです。裳と唐衣はこのように常にセットで用いられるため、裳についている帯は唐衣と同じ裂地(きじ)が用いられます。ですから、前から見ると唐衣の帯のように見えることになります。  ~つづく~

「裳」八枚の裂地でできていて、美しい四つの畝(ドレープ)とほっそりしたウェストが表現できます。髪を結ぶ水引も⑯のように、二本目は赤、以下の三本は白になっています。

 

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連載 重箱のスミ ⑰

女雛  ~その二~

  女雛の髪型  源氏物語 末摘花をオマージュ

いよいよお雛さまのどうでもいいけど知ってると楽しい重箱のスミをほじくります。

 髪型と言えば、平安時代の成人女性は真ん中分けのストレートのロングヘアオンリーでした。黒くつやのあるストレートヘアが美醜の基準となっていたようです。・・ということにものの本ではなっていますが、実際お顔立ちは二の次かというとやはりそうではなく、かなり問題にはなっていたようです。

 源氏物語に末摘花という女性が出てきます。零落した貴族の娘ということで興味を抱いた源氏が求愛し思いを果たすものの、雪の日の朝、姫の顔を見てしまった源氏はその顔立ちに仰天します。長い黒髪は美しいのだけれど、骨ばった顔で鼻が大きく垂れさがってその先が赤くひどいありさまと酷評しています。鼻が垂れ下がるというのは誇張でしょうが、想像するに欧米人的な彫りが深く鼻の高い、現代的な美人だったのかもしれません。この末摘花が着ていたのが黒貂(くろてん:フルキ)の表着(うわぎ)です。今で言えば、黒セーブルの超ロングコートです。平安時代でも毛皮の衣があったのですね。昔も今も超高級品です。おそらく、アイヌとの交易で北海道産の黒貂コートが手に入ったのでしょう。ひょっとしらロシア産の黒貂だったかもしれません。当時は日本海側の方が「表日本」で、東南アジア、中国、朝鮮、ロシアなどとの交流があり、アイヌや琉球からの商船も敦賀や富山、酒田などの港に頻繁に出入りし、貿易が行われていました。北海道はアイヌの領域で、当時、高麗や宋民族も多く住んでいた現在のウラジオストク辺りから北海道経由で中央にさまざまな物資がもたらされたこともわかっています。黒貂もその中のひとつですが、ひょっとしたらロシア系の血が末摘花には入っていたのかもしれません。胴長といわれていますが、身長そのものが高かったのでしょう。

(妄想)末摘花が赤い長袴の上にブラックセーブルの超ロングコートをまとって、ランウエイを歩く姿を想像してみてください。スーパーモデルです。

 雪の日、ふたりでくるまった黒貂の表着は暖かかったに違いありません。

 末摘花の顔を見てしまった源氏はびっくりするのですが、彼の偉いのは、それでも末摘花の心根を愛し生涯面倒を見たことです。

 で、髪型ですが、全体に長い髪なのですが、一部耳の辺りから一束くらいを肩の下くらいの長さに切り、前に垂らします。これを鬢削ぎ(びんそぎ)といいます。これがあると可愛らしさが増すのですが、この部分には別の用途がありました。末摘花のことでもわかるように、女性はそう簡単には男性に顔を見せません。男性の前に出る時は檜扇で顔を隠します。檜扇が手元にない緊急事態のときは、袖やこの鬢削ぎで顔を隠すのです。

 この髪型のときは、頭の上に留めることができないので釵子はありません。木目込人形の多くにはこの髪型でも釵子がつけられていますが、これも「人形だから」ということで見逃して下さい。可愛いからいいのです。

 末摘花は別名「紅花(べにばな)」で、鼻の先の赤いのをからかってつけられたのですが、その長い鼻の先を摘んだらいいのに、という意味で末摘む鼻と紫式部が名付けたのではないかともいわれています。   ~つづく~

 鬢削ぎ

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連載 重箱のスミ ⑯

 女雛  その一

   ~女雛の冠? 髪型~

 一般の女雛の頭についているものは、冠ではなく釵子(さいし)という髪飾りです。「平額(ひらびたい)」、「三本のかんざし」、「櫛(くし)」によって構成されます。

 平額は円盤に三本の剣のような突起が出ている金属で、これを額の上の宝髻(ほうけい)という髪をまるめたところに結び付け、三本のかんざしで固定します。内一本は角ばったコの字型で前から差し込み、U字型の二本は左右から宝髻に差し込みます。櫛は前から平額の下に差し込みます。この櫛にときどき絵が描かれていることがあります。櫛ですので、背の方を上に(歯の方を下に)描かれていなければなりませんが、逆のことがよくあります。人形として見た場合にはその方が良いように思ったのかもしれません。多くは金属製ですが、絵が描かれているものは木製です。どちらが良いという類のものではありませんが、中には黄楊(つげ)の本物の櫛のついたものもあります。

 髪型は「大垂髪おすべらかし)」という、美智子様、雅子様も即位礼でされたかたちのものです。長い髪の毛を後ろで束ねるのですが、五か所で結ぶことになっています。その一番上は「絵元結(えもっとい)」といって絵がかかれていたり、金箔を散らした檀紙などで、二番目は赤い水引、以下の三本は白い水引で、と決まっていてそれぞれ片蝶結びにされます。これも、人形では金紙や白水引だけで結ばれていることがほとんどです。これをほどいてしまう方がいらっしゃいますが、結び直すのはけっこうたいへんなのでほどかないようにしてください。ほどいてしまったら、人形店へお持ちくださいね。この「おすべらかし」にした場合の髪飾りには釵子をつけますが、冠(宝冠)をかぶせるときには「下げ髪」とか「垂髪(すいはつ)」という、二つに分けて後ろに長く垂らした髪型にします。   ~つづく~

おすべらかしに黄楊櫛釵子のお雛さま

 

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連載 重箱のスミ ⑮

冠   その二

男雛の冠

 男雛のかぶっている黒い帽子、これは「冠」なのですが「烏帽子(えぼし)」とよぶ方がしばしばいらっしゃいます。烏帽子は「黒い帽子」の意味ですから、そう呼ぶのも無理はないかもしれません。でも、やはりこれは「冠」なのです。英国チャールズ王の戴冠式で世界中に報道された王冠、王様の冠としてはあれくらい立派だとだれが見ても冠ですが、日本でもこのようなゴージャスな天皇の冠はあるのです。冕冠(べんかん)とよばれるもので、孝明天皇(明治天皇の父)までは用いられており、中央の先端の日章旗のような太陽の中に八咫烏(やたがらす)を配したわが国独特のものです。明治天皇から使われなくなってしまって、ちょっと惜しい気がします。皇后にもこのような冠があり、寶冠(ほうかん)と呼ばれます。

 即位礼などでは、本来ならこの冠が用いられるところなのですが、代わりに用いられるのでこの黒い方も「冠」と呼ぶのでしょう。あるいは、正式の行事にかぶられるものは形を問わず冠と呼ぶのかもしれません。

 明治天皇は即位礼のとき、父帝まで用いられていた「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)という装束を現在のような黄櫨染の束帯に改められました。「光る君」で幼い一条天皇が即位のときに着ていたのが袞冕十二章です。明治天皇はこの中国風の装束をチャラチャラしていると嫌って変えられたそうですが、せっかく改めた黄櫨染の束帯ものちに惰弱だとして、軍服を着用されるようになりました。明治6年に髷(まげ)も切られ、冠もかぶられなくなった姿を見て、後宮の女官たちは腰を抜かしたそうです。それまでは白いお化粧もしておられたのですが、以降はほとんどされなくなったようです。明治元年のこの即位礼の黄櫨染の束帯装束が現代まで続いているのですが、それ以前の即位礼には中国風の衣装と冕冠が用いられていたのです。

 余談です。天皇の装束を改めるにあたって後宮の女官たちの強い反発があり、当時の明治政府は多くの女官を免職させ、そのせいでやり方がわからなくなってしまった宮中儀礼があり、儀礼そのものを改めざるを得ないような状況もおきたようです。

 ちなみに袞冕十二章の袞は「袞衣(こんえ)」とよばれる衣装のこと、冕は「冕冠(べんかん)」という冠のこと、十二章は袞衣に刺繍されている模様のことです。日、月、星座、龍など十二種類の縁起のよい図柄です。

 知っていても何の役にも立ちませんが、お雛さまを飾るときに思い出すとなぜかちょっと楽しくなります。

 明治天皇から使われなくなった冠(冕冠)

 

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見本市開催!

はやくもお正月飾りやお雛さまの見本市。

今日から開催です。当店は出展していませんが、吹上会場でも合同見本市を明日、明後日と開催されます。

名古屋へお越しの際はどうぞお立ち寄りください。

名古屋駅から車なら5分、名古屋城とのちょうど中間です。

一般の方もご覧いただけます。

連載 重箱のスミ ⑭

冠  その一

 男雛の冠

 男雛の頭にかぶせる黒い冠。冠の後ろ側には細いパイプ状のもの(纓壺えいつぼ)がついていて、ここに纓(えい)という羽根のようなものを差し込みます。帽子部分の上に高巾子(こうこじ)という、髷(まげ)を納めるための楕円形の出っ張った部分があります。ここに横から笄(こうがい)を髷に刺し貫いて冠が落ちないように固定するのですが、鎌倉~室町時代には形式的になって、紙縒(こより)や紐を用いてあごの下で結んでかぶるようになりました。即位礼では白い紙縒りを使って、高巾子の前で交差させあごの下で結び、余分を断ち切っています。

 左大臣、右大臣も同じようなものをかぶっていますが、これに付いている纓はくるくると巻いたもの(あるいは下に下がったもの)がついています。

 男雛についているものはほとんどが立纓(りゅうえい)といってまっすぐ上にのびたかたちですが、左右大臣の巻かれたものは巻纓(けんえい)といいます。(下にさがったものは垂纓すいえい)他にも細纓、縄纓など地位や役職、時代によっても多くの種類がありますが、現代では六種類となっています。

 立纓は天皇の冠にのみつけられるもので、男雛もそれにならって立纓がつけられています。お雛さまは必ずしも天皇皇后を表しているわけではなく、漠然と位の高い人の姿を表しているということで立纓になっています。➀で出てくる、黒い装束は天皇が着られることはありませんので、本来ならば垂纓が用いられます。

 例外的に賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)の宮司さんも立纓です。

 上賀茂神社といえば、ここの御定紋(御神紋)は二葉葵(ふたばあおい)です。徳川家の紋は三葉葵ですが、京都の北部は古代から賀茂氏が支配しており、その紋章が二葉葵で、これを賀茂氏が徳川家に献上したとか、安祥城攻めのとき酒井氏忠がお盆に葵の葉三枚を敷き、その上に熨斗鰒(のしあわび)、搗栗(かちぐり)、昆布を載せて進上したところいくさに勝ったので縁起が良いとして三葉葵を酒井氏の紋にせよと授け、その後、その縁起を買って徳川家の家紋として召し上げられたとかいろんな説があります。(=江戸時代史 講談社学術文庫)  ーつづくー

次回、世界の王様たちの冠はとてもゴージャスなのに、なぜ日本の天皇の冠はこんなに地味なのか?いよいよどうでもいい話が佳境に入ります。

 男雛の冠。本来はこのように結びます。

 

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連載 重箱のスミ ⑬

三種の神器  その四  刀

山田浅右衛門のお話

 私が学生のころ、小島剛夕の「首斬り朝」という、たいへん面白い漫画(劇画)がありました。罪人の首を斬る役目を務めている山田朝(浅)右衛門の物語です。数千人の首を斬って、斬り損ないなしという恐るべき手練れでした。

 その名前は代々「御様御用(おためしごよう)」として引き継がれ、幕府に重用されていたのですが役人ではなかったようです。初代は将軍吉宗のころの人物で、明治になるまで代々役目は続いていました。斬った罪人たちのために費用を惜しまず供養をしたり、罪人の辞世の句を理解するために俳句を学び俳号まで持っていたような人物でした。一人斬る度に、その夜は死霊に憑かれないよう酒宴を開いて眠らないようにしたとも伝えられています。

 この漫画の中でひとつ印象深い話があります。あるとき、あばたづらの侍が酒場の女にその面体を笑われてかっとして切り殺してしまい、それが元で大騒動をおこして朝右衛門のまえに引き出されます。男は「武士の面体(めんてい)を笑った女を殺して何が悪い」と息巻きますが、朝右衛門は静かに「武士に面体は無用、武士が怒るのは『卑怯者(ひきょうもの)』とそしられたときだけであろう。」と諭すと、男ははっとして粛然と首を差し出したというものです。今の大人たちにも(子供にも)読んでもらいたいお話です。(50年ほど前の記憶によるものなので、物語の細部は違っているかもしれません。)  ーつづくー

 付記:先日、教師から「卑怯者」と叱責された高校生が自殺するという、痛ましいできごとがありました。実は、この「卑怯」という言葉の意味も時代や立場によって大きく変化しています。女に変装して油断させ、隙をみて敵を切り殺すのが英雄譚として語られることもありますし、現代の戦争では飛び道具ばかりですが「飛び道具とは卑怯なり」と言われた時代もあります。また、昨今の裏金問題への政治家の「超」卑怯な、なんの責任をとらない人たちをお手本にすれば、現代では卑怯者という言葉にそれほど深く反応することはないのかもしれません。しかし、純粋な若者に対しての叱責としてはもう少し言い方や言葉を選ぶべきだったのでしょう。残念でたまりません。

 

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連載 重箱のスミ ⑫

三種の神器  その三  太刀

 ふつう、刀といえば時代劇で出てくる武士が腰に差している大小を思い浮かべます。他にも大きさや用途によっていろいろな種類がありますが、「太刀(たち)」と「大刀(だいとう)」はどう違うのでしょう。

 外見的には、時代劇の武士が腰に差している二本の刀の大きい方が「大刀」です。一方、男雛や、時代劇でも甲冑を着た武将が腰にぶら下げているのが「太刀」です。「差している」のと「ぶらさげている」の違いがあることからわかるように、装着方法によっての違いが一番大きく、鞘(さや)の拵(こしら)えが違います。美術館などで刀身を展示するときも、太刀の場合は刃を下に、大刀の方は刃を上にして展示したりします(必ずしもこの原則とおりではありません)。では、刀身そのものに違いはあるのでしょうか?

 太刀は基本的に馬上で甲冑を着た武士が振り回すために作られており、大刀より少し長いものが多いようです。(これも、平均的に少し長いという意味です。)

 太刀に限らず、日本刀は刀身に鍔(つば)や柄(つか)をつけたとき、柄がすっぽ抜けないように刀身の柄に収まる部分に目釘穴(めくぎあな)という小さな穴をあけ、柄を取り付けたときこの目釘穴に竹の目釘を通して抜けないようにします。この柄に収まるにぎりの部分を茎(なかご)と呼び、刃の部分と茎の境目辺りを区(まち)と呼びます。この茎に空ける目釘穴の位置が、太刀の場合には区から指四本、大刀の場合は指三本分といわれています。太刀と大刀の用途の違いによって位置を変えているのでしょうか、理由はわかりません。

 この穴に通す目釘には竹が使われます。真竹(まだけ)を燻(いぶ)したり油をしみ込ませたりしたものや、一番良いものは古い民家の屋根裏や天井で自然に燻された「煤竹(すすだけ)」といわれています。また、この目釘穴も通常は円形ですが、中には「瓢箪(ひょうたん)形」や「猪目(いのめ)形(※)」などがあって、楽しめます。ときには目釘穴が三~四個空いているものもあります。頻繁に用いたり力づくで用いたりするための刀では目釘を数本にしたようです。有名な首切り山田浅右衛門(※)の刀などは絶対に抜けたりしないよう目釘も多かったといいます。

(※)猪目

 ハート型の文様。火除け、魔除けとして神社建築や鎧兜、太刀などにもよく使われます。猪(いのしし)の目がなぜハート型なのかわかりません。(図)

 兜のクワガタにつけられた猪目

(※)首切り山田浅右衛門については次回!

 

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連載 重箱のスミ ⑪

三種の神器 鏡 その二

神武天皇の携える三種の神器。手に金色のトビのとまっている梓弓を持っています。

 銅鏡は、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡からたくさん発掘されています。その中でも代表的なのが三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と呼ばれる、直径十五~二十センチくらいの円形で周囲の断面が三角形になっている鏡です。伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)はこれよりもずっと大きく、伝えられる見聞録によれば「八頭花崎八葉形(やつがしらはなさきはちようけい)⇒写真参照」で、四十六センチほどの大きさとなっています。かつては、銅鏡は中国や朝鮮半島からもたらされたものと思われてきましたが、近年ではその多くは日本国内で製作されたものとする説が有力です。やや凸面鏡で、鏡面を上向きに置いたとき安定するように周囲が三角形に盛り上がっています。令和五年二月、奈良の富雄丸山古墳でとんでもない鏡と剣が発見されました。盾形の銅板に神獣文様が入った鏡と、二メートルを超すうねった蛇行剣です。当時の奈良にこうした優れた金工職人がいたことを示しています。神武東征(※)の際の事情を解くカギになるかもしれません。

 二メートルを超す大刀といえば、名古屋・熱田神宮には斬馬刀と呼ばれる巨大な太刀(二メートル二十二センチ)があります。姉川の戦いで朝倉軍の真柄直隆(まがらなおたか)が使ったというもので、同寸、同重量のレプリカが同神社草薙館に展示されており、実際にさわって持ち上げることができます。どうぞ持ってみて下さい。

(※)神武東征

古事記、日本書紀に載っているお話で、紀元前七世紀、九州日向から瀬戸内海を通って東へ向かい、幾多の敵を倒しながら最終的に今の奈良県橿原(かしはら)に都を築いたという言い伝え。金のトビがとまっている弓を持った神武帝の人形は、この時の姿を表しています。古事記、日本書紀はここから千数百年を経過してから書かれているため信憑性については諸論があります。

 

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